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突然現れたクズ男

別れた男が公演に現れた

恐怖の幕が上がる




初舞台に現れた勇樹を見た瞬間、節子は背筋が凍るような恐怖を覚えた。

一度別れた男に付きまとわれるという経験は、それまでにもあった。

けれど、勇樹は、それまでの男たちとはどこか違っていた。

出会った頃の彼は、優しい雰囲気に包まれていた。何をするにも丁寧で、言葉遣いも穏やかだった。節子は、ようやく自分もまともな男と付き合えたのだと思っていた。それは確かなことだった。

ところが、付き合いが深くなるにつれて、少しずつ勇樹の別の顔が見え始めた。彼は、ひどく依存心の強い男だった。

昔風の言い方をすれば、「ヒモ」と呼ばれるような存在になっていったのである。

こんな男が、令和の時代にもいるのか。節子は何度そう思ったことだろう。

半同棲を始めてから、勇樹はほとんど働かなくなった。最初のうちは、たまたま仕事がないのだろうと思っていた。しかし、それはいつまで経っても変わらなかった。

節子の生活費には、いつの間にか勇樹の分まで上乗せされていた。二人分の家賃。二人分の食費。二人分の日用品。働かない勇樹を抱えた生活は、日を追うごとに節子の肩へ重くのしかかってきた。


そして、節子はようやく決心した。別れよう。やっとの思いで勇樹との関係を断ち切った。

だからこそ――。

その勇樹が、舞台俳優として初めて立った記念すべき舞台に、突然現れた。

その衝撃は、言葉では言い表せないほど大きかった。

まさか。

よりを戻そうなんて考えているのではないだろうか。

「まさか、よりを戻そうなんて考えてないでしょうね」

そう言いたかった。けれど、周囲には人がいる。今日の舞台を観に来てくれた人たちもいる。

節子は何事もなかったかのように、ひたすら笑顔を浮かべていなければならなかった。

「お仕事は、しているんですか」

それだけを聞いた。勇樹は、微笑んだ。けれど、答えようとはしなかった。

「……」

沈黙が、妙に長く感じられた。嫌な予感がした。

――やばいことになりそう。

どうしたらいい。

そのとき、勇樹が静かに言った。

「終わったら、俺、外で待ってるから」

節子は何も答えられなかった。喉の奥が固まってしまったようだった。

その後も、何人もの知り合いが節子のところへやって来た。

祝いの言葉をかけてくれた人もいた。

笑顔で応じた。「ありがとうございます」と言った。何度も頭を下げた。

けれど、そのほとんどが記憶に残っていなかった。

頭の中には、たった一つのことしかなかった。

――どうしよう。

胸の奥から、得体の知れない恐怖が湧き上がってくる。

もし、本当に勇樹が外で待っていたら。

一緒に帰ることになったら。

きっとアパートまで付いてくる。

そして、また以前の生活に引き戻されてしまう。焼け木杭に火がつくことを、勇樹は狙っているのではないか。そんな考えが頭をよぎった。

もう、それだけはごめんだった。

あの生活には戻りたくない。絶対に。

では、どうすればいいのか。

節子は必死に考えた。そして、一つの考えが浮かんだ。

共演している俳優の中に、節子と同じくらいの年齢で、比較的よく話をする青年がいた。特別に親しいわけではない。けれど、彼なら頼めるかもしれない。

――助けてもらおう。

節子は楽屋へ戻った。すると、その青年はまだ着替えていなかった。

「ちょっとお願いがあるんだけど……」

節子は、少しためらいながら声をかけた。事情を説明すると、青年は真剣な顔で話を聞いてくれた。

彼の名前は、宇津川君。まだ二十二歳だったが、舞台歴は五年にもなる。

年齢の割には豊富な経験を持つ、中堅の役者と言ってもよかった。節子も何度か劇中で絡む場面があった。

台詞の間を合わせたり、芝居の呼吸を合わせたりするうちに、いつしか彼に対して、尊敬にも似た感情を持ち始めていた。とはいえ、私生活の、それもこんな込み入った話を、さほど親しくもない相手にするのは気が引けた。

けれど、今はそんなことを言っていられる状況ではなかった。

「いいよ。それは大変だし、危ないよ」

宇津川君は、ためらうことなく言った。

「二度と寄り付かないように、しっかり芝居してあげるよ」

「ありがとう……」

その言葉を聞いて、節子は少しだけ胸を撫で下ろした。けれど、まだ安心はできない。結果が出るまでは、何が起きるか分からなかった。

やがて着替えを終え、節子は宇津川君と連れ立って劇場の外へ出た。

すると――。いた。勇樹だった。出口近くの電信柱の陰に勇樹が立っていた。待っていたのだ。節子の心臓が、大きく跳ねた。

「……あの人ですね」

宇津川君が小さな声で言った。

「うん……」

節子が答えるより早く、宇津川君は勇樹に向かって足早に歩き始めた。勇樹は宇津川君に気づいた。一瞬、視線を逸らし、俯いた。宇津川君が勇樹の前で立ち止まった。

「すいません。あなたが節子さんの元カレさんですか?」

勇樹は顔を上げた。少し驚いたような表情だった。そして、目をしょぼつかせながら宇津川君を見る。

「……」

「どうなんですか?」

宇津川君の語気が、わずかに強くなった。

それでも勇樹は答えない。

「……」

節子は少し離れた場所から、その様子を見ていた。やはり、変わっていない。何事にも優柔不断なのだ。

昔からそうだった。

「僕は、節子さんとお付き合いをしています」

宇津川君は、はっきりと言った。節子は思わず息を呑んだ。もちろん、それは芝居だった。

けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何とも言えない感情が走った。

「節子さんは、あなたとはもう話したくないそうなんですけど」

「はあ……」

勇樹が小さく息を吐いた。

「分かっていただけますか?」

「……」

返事はない。

「返事を聞かせてもらえませんか」

「はあ……あの……」

節子は心の中で呟いた。

――あまり追い詰めると、切れるかもしれない。

半同棲していた頃も、そうだった。働かないことを問い詰めると、最初は黙って聞いている。けれど、追い詰められると、やがて突然、感情を爆発させた。そして部屋を飛び出していく。しばらくすると、何事もなかったように戻ってくる。その後は、さっきまでのことなど何もなかったかのように食事をする。

あるときなどは、そのまま布団に潜り込んで眠ってしまった。

そんな男だった。

「どうなんですか?」

宇津川君が、もう一度尋ねた。

そのときだった。

勇樹は、はっきりと顔を上げた。

そして、数メートル離れたところに立っている節子を見た。

目が合った。

節子は、反射的に視線を逸らした。

「あの……僕は別に……」

勇樹が言った。

「別に、どうなんですか?」

「いや……また付き合おうとか、そんなことは……」

「では、もう僕たちの前に現れないと約束してもらえますね」

「……はい」

低く、小さな声だった。勇樹はそう答えると、二人に背を向けた。そして、駅の方向へゆっくりと歩き出した。

節子は、その後ろ姿を見つめていた。勇樹の姿が少しずつ遠ざかっていく。けれど、安心できなかった。

「……本当に大丈夫ですかね」

思わず口からこぼれた。正直なところ、節子自身も不安だった。勇樹は、本当に自分とよりを戻すために、この公演に現れたのだろうか。それとも――。別の何かを考えているのだろうか。考えれば考えるほど、嫌な結論にたどり着いてしまう。けれど、今それを想像したところで始まらない。今の節子にできることは、宇津川君に感謝することだけだった。

「ともかく、ありがとう。これで諦めてくれるとは思うけど……また来るかもしれない」

「そんなにしつこい人なんですか?」

「しつこいというより……諦めが悪い、と言ったほうがいいかもしれない」

「そうなんですね」

宇津川君は少し考えるようにしてから言った。

「でも、今度来ても僕が何とかしますから。安心してください」

「本当にありがとう」

それしか言えなかった。今は感謝することしかできない。宇津川君がいてくれて、本当によかった。節子は心からそう思った。少しだけ、張り詰めていたものがほどけていく。

「お礼をしなくちゃね」

すると宇津川君は笑った。

「じゃあ、今度ラーメンでもおごってください」

「そうね。今度ね」

ほんの少しだけ、いつもの節子に戻れた気がした。

「今日は家まで送りたいんですけど、深夜バイトがあるから」

「いえいえ、とんでもない。そんなことまで……」

「でも、ちょっと不安だなあ」

「気をつけて帰りますから、大丈夫です」

「じゃあ、僕は時間がないので、駅まで駆けていきますね」

そう言うと、宇津川君は足早に駅へ向かっていった。

「ありがとう。お疲れさまでした」

「はい。お疲れでした」

節子は、その後ろ姿を見送った。

そして、誰に見せるでもなく、そっと両手を合わせた。

宇津川君がいてくれて、

本当によかった。

けれど――。心の奥に残った不安までは、消えてくれなかった。駅へ向かって遠ざかっていく宇津川君の姿が見えなくなると、節子は一人になった。

夜の街は、何事もなかったように静かだった。

けれど節子には、その静けさがかえって不気味に感じられた。

本当に、これで終わったのだろうか。

勇樹は、もう二度と現れないのだろうか。

節子は自分にそう問いかけながら、ゆっくりと歩き始めた。

その胸の奥には、まだ消えない小さな恐怖が残っていた。




アルバイト先を恐怖に陥れるカスハラ客

どう立ち向かうのか

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