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厳しい現実

俳優という職業の厳しさは舞台に立って初めてわかる

それでもお客さんの拍手を浴びたい俳優の性(さが)

第四章 厳しい現実




俳優養成所に入って二か月目の六月。

節子は、ある舞台のオーディションに合格した。

俳優になりたい。そう思って養成所に入ったばかりの節子にとって、初めてつかんだ舞台だった。嬉しかった。

ようやく、自分も俳優への道を歩き始めたような気がした。

しかし、喜んでばかりはいられなかった。

そこから、アルバイト、養成所のレッスン、そして舞台の稽古。

三つを同時にこなす、目の回るような生活が始まった。

公演は七月中旬から約二週間。

昼公演と夜公演を合わせて、全部で十七公演。

その十七公演を、最後まで走り抜かなければならない。

そして、節子が最初に直面した難関は、演技でもなければ稽古でもなかった。

チケットを売ることだった。

この公演のギャラは、いわゆる「チケット戻し」というシステムだった。

舞台の世界に詳しくない人には、少し分かりにくいかもしれない。

簡単に言えば、出演料が最初から決まっているわけではない。

キャストが自分で売ったチケットの売り上げに応じて、出演料が支払われるのである。

例えば、チケット代が六千円で、キャストへの還元率が二十パーセントなら、一枚売るごとに千二百円が自分のギャラになる。

十枚売れば一万二千円。

二十枚売れば二万四千円。

しかし、一枚も売れなければ――ゼロ。ノーギャラである。

舞台に立って、何日も稽古をして、それでもチケットが売れなければ収入はない。

この仕組みが嫌になって、舞台の世界から離れてしまう人もいる。

華やかな舞台の裏側には、そんな厳しい現実があった。

では、誰に売るのか。誰が買ってくれるのか。節子は考えた。

そこで思いついたのが、「初めて」という言葉だった。

人は、初めての出来事には、何となく応援したくなるものではないだろうか。

初めての就職。初めての大学入学。初めての出産。

人生には、初めてを祝う出来事がいくつもある。

だったら、

「初めて舞台に立つんです」

と言えば、

「おめでとう。ぜひ観に行かせてもらうよ」

となるのではないか。

節子には、そんな期待があった。

知り合いを総動員すれば、二十枚、いや三十枚くらいは売れるかもしれない。

そうなれば、少しは出演料になる。

もしかしたら、初舞台ということで、みんな応援してくれるかもしれない。

節子は、そんな甘い期待を抱いていた。

ところが、現実は違った。

「ああ、おめでとう」

「初舞台なんだ。頑張ってね」

そこまでは、みんな言ってくれる。

そして節子が、

「絶対来てよね。チケットの販売先をリンクで送っとくから」

と言うと、

「うん、ありがとう」

そこで会話が終わる。

リンクを送った。

しかし、いつまで経っても購入されない。

本当に来てくれるのだろうか。

気になって、スマートフォンを何度も確認した。

すぐに買ってくれる知り合いもいた。

一方で、何度待っても買ってくれない人もいた。

こういうときにこそ、日頃の付き合いの親密さが分かるような気がした。

人間関係というものは、普段は見えない。

しかし、「六千円のチケットを買って、わざわざ時間を作って観に来てくれるか」という場面になると、途端にその輪郭がはっきりする。

節子は、自分にできることはしたつもりだった。

お願いもした。連絡もした。宣伝もした。それでも売れない。ならば、仕方がない。日頃の行いが悪かったのだと諦めるしかない。

人のせいにはできない。そう、つくづく思った。

そして、初めての公演で節子が売ったチケットは――十二枚だった。

収入にすると二万円弱。

これが、初舞台に立った新人俳優の現実だった。仕方がない。初めてなんだから。

節子は自分にそう言い聞かせた。

いや――。

初めてだからこそ、買ってくれるのではなかったのか。

「初舞台、おめでとう」

そう言ってもらえることと、

「じゃあ、六千円払って観に行くよ」

ということは、まったく別の話だった。

夢に一歩近づいたと思った瞬間、その足元には現実があった。

それでも、節子は稽古を休まなかった。

むしろ、これまで以上に稽古に励んだ。

できるだけ早く稽古場に入り、人より遅く帰る。

自分から積極的に提案する。

誰かが困っていれば手伝う。

まだ新人だからこそ、できることは何でもやろうと思った。

チケットは売れなかった。

お金にもならなかった。

それでも、舞台に立つ以上、中途半端なことはしたくなかった。

そして、ついに初日を迎えた。

幕が上がった。

照明が当たる。

客席が見える。

節子にとって、初めての舞台だった。

怖かった。

それ以上に、嬉しかった。

そして――無事に初舞台を終えることができた。

終演後、節子はようやく大きく息を吐いた。

ここまで来た。

自分も、とうとう舞台に立った。

ほんの少しだけ、自分が俳優になったような気がした。


ところが。

そんな感慨に浸っている暇は、長く続かなかった。

公演三日目のことだった。

終演後、キャストたちは舞台や客席に出て、観客と面会する時間がある。

劇団のグッズ販売や、チェキ会なども行われる。

ファンがいるキャストは、観に来てくれた人たちにお礼を言ったり、一緒にチェキを撮ったりする。

舞台の上とは違う、少しくだけた時間だった。

節子も、その場に立っていた。

まだ自分にはファンと呼べるような人はいない。

それでも、初舞台を観に来てくれた人たちに、できるだけ笑顔でお礼を言っていた。

そのときだった。

「久しぶり」

聞き覚えのある声がした。

節子は顔を上げた。

一瞬、何が起きたのか分からなかった。

そして――目の前の男を見て、身体が固まった。

勇樹だった。杉下勇樹。二十七歳。フリーター。

節子が大学生のころに付き合っていた男。

二年ぶりだった。

「あー……こんにちは」

声が上ずった。

顔が強張る。

目がしょぼしょぼする。

笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉が思うように動かなかった。

まさか。

よりにもよって。

どうして、ここにいるの。

節子の頭の中を、そんな言葉が駆け巡った。

勇樹と知り合ったのは、節子が二十一歳のころだった。

まだ、俳優になろうと漠然と考え始めたばかりの時期だった。

ある日、駅前を自宅に向かって歩いていた。

そのときだった。

「この駅の周りに、落ち着くカフェを知りませんか?」

声をかけてきたのは、背の高い男だった。

韓国スターのような、薄い感じの顔立ち。

いわゆるイケメンだった。

それが勇樹だった。

東京に出てきてから、節子は男に声をかけられることには慣れていた。

数え切れないほどナンパされた。

節子はいわゆる美人系の女の子だった。

少し冷たい感じはするものの、決してお高くとまっているわけではない。

むしろ本人には、そういう自覚がほとんどなかった。

だから、街を歩いていると男から声をかけられることは珍しくなかった。

このときも、少し警戒した。

「はい?」

たぶん、怪訝な顔をしていたのだろう。

「カフェなんですけど」

男は、節子が立ち止まってくれたことが嬉しかったのか、少し安心したような表情を見せた。

「えー、そうですねえ」

「ごめんなさい。いきなりこんなこと聞いてしまって。でも僕、この駅に来るの初めてなんです」

「待ち合わせですか?」

「いや、初めて来るので、少し落ち着いたところで本を読みたいと思っているんです」

節子は、それほど悪い印象を持たなかった。

「そうですねえ。ひとりで読書するなら、Rがいいんじゃないでしょうか」

Rは、駅前のロータリーから商店街を北に向かい、三分ほど歩いたところにある。

細い路地を入ったところにある、小さなカフェだった。

「ありがとうございます。そこは雰囲気がいいですか?」

「はい。落ち着いた雰囲気ですし、一人で読書するにはいいと思いますよ」

「そうですか。では、行ってみます」

男はそう言うと、節子から離れていった。

これで終わり。

節子はそう思った。

ところが――。

「すいません」

後ろから声がした。

振り返ると、男がこちらを見ていた。

「はい?」

「もし良かったら、この街のこと教えてくれませんか?」

節子は戸惑った。

たぶん、その戸惑いが顔に出ていたのだろう。

男は微笑みながら言った。

「ごめんなさい。あなたとこれきりでは、もったいなくなってしまいました」

あまりにも真っ直ぐだった。

普通なら、断る。

そうするための時間がある。

しかし、勇樹には、その「間」を与えないようなところがあった。

直情的で、ためらいがない。

節子は、その場で明確に拒否することができなかった。

それが、きっかけだった。

何度か会うようになった。

そして、会う回数が増えるにつれて、節子は彼の中にある陰影を感じるようになった。

明るいだけではない。

何か抱えている。

どこか寂しそうでもある。

その陰影に、節子は惹かれてしまった。

そうなると、節子という女性は、男に吸い寄せられてしまうところがあった。

彼の名前は、杉下勇樹といった。

大学を出て、一度は就職した。

しかし、数か月で仕事を辞めた。

そのころはアルバイトをしていて、実家で暮らしていた。

節子のアパートに出入りするようになるまで、一か月もかからなかった。

そして、そのアルバイトさえ辞めてしまった。

昼間は節子の部屋でゴロゴロして時間を潰す。

節子が帰ってくると、

「飲みに行こうよ」

と居酒屋に誘う。

そんな毎日が続いた。

「働いてよ」

節子は何度言っただろう。

そのたびに勇樹は、

「いいバイトが見つかるまで、嫌なことしたくない」

と言った。

いつも、それだった。

節子の生活は、もともと楽ではなかった。

自分ひとりの生活費でさえ、かつかつだった。

そこに勇樹が加わった。

少しずつ、生活に暗い影が差していった。

「お金が続かないよ」

「どうにかなるって」

どうにかなる。

その言葉を、節子は何度聞いたか分からない。

この男はいったい何なんだろう。

好きなのか。嫌いなのか。助けたいのか。離れたいのか。

いろいろな感情が入り混じった。

どうしたら、この人はまともになるのだろう。

節子は何度も考えた。

けれど、答えは見つからなかった。

結局、節子は死ぬ思いで勇樹に別れを告げた。

意外なことに、勇樹はあっさりと別れを受け入れた。

そして、去っていった。これで終わった。節子はそう思っていた。

二度と会うことはないと思っていた。

それなのに――。二年後、よりにもよって。

節子の初舞台の客席に、勇樹は現れた。

そして今、目の前にいる。

何事もなかったような顔で笑っている。

「元気にしてる?」

勇樹は、昔と変わらない口調で言った。

節子は、しばらく言葉が出なかった。

胸の奥がざわついている。

なぜ来たのか。誰から聞いたのか。何をしに来たのか。

そして――。

これから何が始まるのか。

聞きたいことはいくらでもあった。

けれど、観客の前だった。

周りには、他のキャストもいる。

だから節子は、精いっぱいの笑顔を作った。

「元気にしてる?」

そう言うのが精いっぱいだった。


突然現れた昔の男

言い知れない恐怖が訪れる

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