俳優めざす宣言
母親の再婚相手はモラハラおやじだった
決意の俳優めざす宣言
売れていない俳優が、義父に「俳優になりたい」と告げたとき、いったいどうなったのか。
ご覧ください。
大学生のころ、節子は演劇研究会と学業とアルバイトを、それぞれ過不足なくこなしていた。
一年生と二年生のときに頑張って多くの単位を取ったので、三年生以降は大学生活も比較的ゆったりしたスケジュールになった。そのぶん、演劇に没頭することができた。
就職のことなど、ほとんど考えたことがなかった。
就職活動に勤しむほかの学生たちを横目に、節子は芝居の勉強に余念がなかった。いや、横目に見ていたというより、まるで別の世界の出来事のように、完全に無視していたのかもしれない。
そんな節子が、四年生の夏休みに入る少し前、ある劇団が運営する俳優養成所のオーディションに合格した。
合格したことを、親に報告する必要があったのかどうかは、今となってはよく分からない。
たまたま帰省したとき、つい口にしてしまったのである。
すると、義父から矢継ぎ早に質問が飛んできた。
「本気で役者を目指すのか」
「後悔はしないのか」
「役者がだめになったとき、どうするんだ」
耳にたこができるほど、そんなことを言われた。
もちろん、義父が心配するのも無理はない。
学生演劇をやっているというだけで、たいした舞台に立てるわけではない。
節子自身も、それは分かっていた。
だからこそ、どうしてもプロの指導を受けたかった。
どんな仕事にも対応できるような技術を身につけたい。何の準備もないまま、いきなり芸能界に飛び込んでも、長く続くはずがない。
少なくとも節子は、そのくらいのことは考えていた。
……と、ここまで書くと、ずいぶん現実を直視していたように思われるかもしれない。
しかし、そこはまだ二十歳にもならない女の子である。
本当にそこまでシビアに考えていたのかどうかは、節子自身にもよく分からない。
今から考えてみると、節子は自分の容姿に多少の自信があったようだ。
顔は、まあまあ美人の部類に入る。
スタイルだって、決して悪くない。
しかし、そんな女の子など世の中には星の数ほどいる。
仮に運よく何らかの仕事でデビューできたとしても、線香花火のように、一瞬だけぱっと輝いて、あっという間に消えてしまう。
そんな予感は、どこかにあった。
できれば長く続けたい。
結婚しても辞めたくない。
子供を産んでも引退したくない。
そんなことをぼんやりと思っていたところへ、俳優養成所の合格通知が来たのだから、節子としては期待に胸が膨らんだ。
就職のことなど、頭の片隅から吹き飛んでしまった。
いや。
そもそも、就職のことなど最初から念頭になかったのかもしれない。
母親には、オーディションに合格したことを少しだけ伝えていた。
ただ、母親は「まさか」という感じで、いまひとつ実感が湧いていない様子だった。
そして、どうやら父親には伝えていなかったらしい。
だから、そのことを父親に話したときの顔つきが、節子には忘れられない。
普段、父親は怒るような人ではない。
眉間にしわを寄せることさえ、ほとんどない。
ところが、そのときだけは違った。
顔に深い影が差したように見えた。
とても正視できないような表情だった。
そして、絞り出すように、たったひと言。
「まじかぁ」
青天の霹靂とは、まさにこのことだった。
「ごめんなさい。黙っていて」
節子がそう言うと、義父はまだ信じられないという顔で尋ねた。
「養成所に通うのに、どれくらい授業料がかかるんだ」
そして、隣にいる母親の顔を覗き込むようにして、
「お母さんは、いいのか?」
と聞いた。
母親は何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
節子は、その空気に耐えられなくなって、
「大丈夫だから。心配しないでね。ときどき連絡するから」
と言った。
すると義父が、
「毎日、連絡してくれよ」
と返した。
「分かった」
節子はそう答えた。
こうして、節子の俳優への道が始まった。
とはいっても、まだ大学生である。
四年生になると同時に、養成所でのレッスンも始まった。
幸い、大学の単位は三年生までに大半を取っていた。
四年生で受けなければならない授業はほとんどなく、大学と養成所を掛け持ちすることになっても、それほど無理のある生活にはならなかった。
そして、養成所に入ってレッスンを始めてから二か月ほど経ったころ、思いがけない話が舞い込んできた。
下北沢の劇場で行われる公演のオーディションに、節子が合格したのである。
もちろん、嬉しかった。
嬉しかったのだが、それと同時に、不安も一気に押し寄せてきた。
高校時代から芝居を続けていたので、演劇の基礎がまったくないわけではない。
それでも、プロの世界にいきなり飛び込んで、本当にやっていけるのだろうか。
そんな不安がなかったわけではない。
そのとき事務所の社長が、節子にこう言った。
「たいした舞台じゃないから大丈夫だよ。君が合格したのは、芝居のスキルじゃなくて、見た目なんだからさ」
「えー、そんなこと……」
節子は心の中で思った。
嬉しいのか、悲しいのか、よく分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
自分のような素人に毛が生えた程度の役者が、百戦錬磨の役者たちの中に放り込まれて、みんなに迷惑をかけたらどうしよう。
その不安で、胸がはちきれそうだった。
養成所のレッスンもしばらく休まなければならない。
幸い、養成所は事務所の系列会社だったので、そのあたりは融通が利いた。
だが、そんなことよりも、節子にとっては自分が本当に舞台に立てるのかどうかのほうが大問題だった。
稽古は、公演初日の一か月前から始まっていた。
節子が演じるのは、主人公のクラスメイト。
そして、親友という役だった。
さらに、二人だけで芝居をするシーンがある。
これが、節子には何よりも不安だった。
台本の量にすると、約二ページにわたる台詞の掛け合い。
誰もいない教室で、親友の悩みを聞く。
ただ聞いているだけではない。
相手の言葉に反応し、感情を動かし、ときには激しい口調にもなる。
高校演劇でも似たような場面は経験していた。
だから、まったく想像がつかない芝居というわけではない。
それでも、プロの現場は違った。
演出家は三十代の女性だった。
自らも舞台に立っている人で、節子のことを特に気にかけているようだった。
少なくとも節子には、いつも自分だけ見られているような気がしていた。
二人語りのシーンは、芝居が始まってから三十分ほど経ったところで出てくる。
つまり、その場面が来るまでの時間、節子はずっと、
「このあと、あのシーンが来る」
と思い続けていることになる。
いざ稽古が始まると、演出家からひと言、またひと言とダメ出しが飛んできた。
「そこ、もう少し間を取って」
「今の表情、違う」
「相手の台詞をちゃんと聞いて」
「もう一回」
「最初から」
何度も繰り返した。
最初のころは、ダメ出しのたびに自分の芝居が全部否定されているような気がした。
けれど、何度もやり直しているうちに、少しずつ何を求められているのかが分かってきた。
そして、少しずつ、演出家からのダメ出しも減っていった。
「もう一回」が、
「うん、それでいい」
に変わっていく。
ほんの少しずつだったが、節子は自分が前に進んでいることを感じていた。
そして、ついにその日が来た。
舞台の初日。
七日間にわたる公演が、始まった。
俳優生活の現実
恐ろしい日常




