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売れていない俳優の男事情

男にだらしないわけじゃないけど、クズばかりが寄って来る売れない俳優の顛末


第16章 売れていない俳優の男遍歴をご覧ください


蒼汰の場合



 蒼汰とは、駅のホームで知り合った。

俳優養成所の最寄り駅から自宅へ戻る途中だった。

電車を待っていると、すぐ近くに大学生らしい男の子が立っていた。耳にはイヤホン、片手にはスマートフォン。周囲の人間などほとんど目に入っていないような様子だった。

電車がホームへ滑り込んできた、そのときだった。

節子の足元近くに、ワイヤレスイヤホンがころりと転がってきた。

「落ちましたよ」

声をかけると、男の子は顔を上げた。

細く、少し垂れた目。その目をさらに細めるようにして、節子に礼を言った。

「ありがとうございます」

節子は軽く会釈をして、ドアの開いた電車に乗り込んだ。

席はいくつか空いていた。それでも座る気にはなれず、いつものようにドアのそばに立った。流れていく景色をぼんやり眺めていると、背後から声がした。

「ありがとうございます」

振り返ると、さっきの男の子だった。

髪はボブヘアーで、前髪が目のすぐ上までかかっている。つぶらな瞳には妙な愛嬌があった。唇は少し厚く、顔立ちにはまだ少年の面影が濃く残っている。

青年と呼べる年齢なのだろうが、表情だけを見ると、どこか子供っぽい。

「そんな、お礼を言われるほどじゃないのに」

節子が笑うと、男の子も笑った。

しかし、それ以上は何も言わない。

ただ、節子の瞳を覗き込むようにして、少しずつ顔を近づけてきた。

「何か?」

「どこで降りますか?」

一瞬、節子の中に警戒心が生まれた。

――何、この人。

普通なら、そこで距離を取るのだろう。

知らない男に突然そんなことを聞かれれば、不快に思う人もいる。節子自身も、頭では「警戒したほうがいい」と分かっていた。

けれど、不思議なことに怖くはなかった。

「いやー……」

節子は曖昧に笑いながら顔を伏せた。

すると男の子は、伏せた節子の頬を人差し指でちょんちょんと突いた。

その瞬間、さすがに節子は反射的に右手を顔へ持っていった。

触られたことへの拒絶というより、どうしていいのか分からなかったのだ。

ちょうどそのとき、男の子が頭を下げた。

「すいませんでした」

素直な謝り方だった。

節子の中にあった警戒心は消えなかった。それどころか、少しだけ大きくなった。

なのに――。なぜか笑ってしまった。

人間というものは、不思議だと思う。

嫌なら嫌と言えばいい。怖ければ逃げればいい。

けれど節子は昔から、そういうところが少し鈍かった。

人との距離を測ることが苦手だった。

相手が自分に何を求めているのかを深く考えるより、「この人は今、私に話しかけたいのだろう」と受け取ってしまう。

それが優しさなのか、無防備なのか、自分でも分からなかった。

「次の駅で降ります」

気がつけば、そんなことを言っていた。

「お話しませんか」

男の子が言った。

普通の女の子なら、ここで少し迷うのかもしれない。

どんな人なのか。何を考えているのか。ついて行って大丈夫なのか。

けれど節子は、そういう計算をほとんどしなかった。

「そうしますか」

自分でも驚くほどあっさりと答えていた。

そして二人は次の駅で降りた。

駅前のコーヒーチェーン店に入り、向かい合って座った。名前を聞いた。

彼は蒼汰と名乗った。

大学二年生。北関東の実家を離れて一人暮らしをしている、ごく普通の大学生だった。やがてラインを交換した。

これも、普通の女の子なら少し慎重になることなのかもしれない。

けれど節子は、ナンパされたかどうかということにも、それほどこだわらなかった。

「嫌なら断ればいい」

ただ、それだけの感覚だった。

そして蒼汰の話を聞いているうちに、節子は少しずつ彼に親近感を持つようになった。

「僕、バンドをしているんです。ギターをやっていて、作曲も担当していて。今度ライブもあるんです。来てくれますか?」

蒼汰は、夢を語った。

その言葉を聞いていると、節子には他人事とは思えなかった。

自分も俳優になりたい。いつか何者かになりたい。

まだ何者でもない自分が、それでも夢だけは手放せずにいる。

だから、夢を語る人間を見ると、節子はどうしても応援したくなった。

それが危うさにつながることも、当時の節子は知らなかった。

初ライブを控えている。ライブには金がかかる。

そのまま親しくなれば、いずれ金を貸してほしいと言われるかもしれない。

普通なら、そんなことを考えるだろう。

けれど節子は、そんな未来を想像しなかった。

数回食事をしたころには、蒼汰は自然に節子の部屋へ上がるようになっていた。

深夜に突然訪ねてきて、そのまま泊まっていくこともあった。

ある夜、二人は男女の関係になった。

それからしばらく、お互いの部屋を行き来するようになった。

恋人だったのかと聞かれれば、節子にはよく分からない。

好きだったのかと聞かれても、きっと「好きだった」と答えるのだろう。

ただ、それは誰かを独占したいという種類の好きではなかった。

蒼汰が自分の隣にいる。

それだけで、なんとなく心が温かくなる。その程度のものだった。

ある夜、二人で横になっていると、蒼汰がぽつりと言った。

「渋谷の比較的大きなライブハウスで空きが出てさ。そこでライブできれば最高なんだけど、料金が高いんだよね」

「そう……」

節子は半分眠っていた。

隣から聞こえてくる蒼汰の声を、夢の中へ沈みかけた頭で拾っていた。

「いくらか貸してくれないかなあ。バイトすれば返せるし」

節子は少しだけ目を開けた。

「どれくらい?」

「七万くらいかな」

「そんなに持ってないよ」

「じゃあ五万円でもいいよ」

節子は天井を見た。五万円は決して小さな金額ではない。

けれど、そのとき頭に浮かんだのは「貸して大丈夫かな」ではなかった。

――蒼汰、ライブに出たいんだ。

――やりたいことがあるんだ。

自分にも夢があるからこそ、その気持ちを無視できなかった。

「考えておくね」

「ありがとう」

蒼汰はそれだけ言った。その後、何も言わなかった。

節子は隣で眠りかけながら、少しだけ胸がざわついた。

五万円を貸すことが正しいのか。

もしかしたら利用されているのではないか。

そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。

けれど、すぐに打ち消した。

――もし本当に困っているなら。

――私にできることなら、してあげてもいい。

二分ほどしてから、節子は小さな声で言った。

「いいよ。五万円貸すよ」

「本当?」

蒼汰の声が少し明るくなった。

それを聞いて、節子も笑った。

自分が役に立てた。

そのことのほうが、金を失うかもしれないという不安より大きかった。

二か月後、蒼汰はまたライブで金が必要だと言った。今度は十万円。

節子は結局、それも渡した。

そしてライブの日、節子は客席から蒼汰を見ていた。

ステージの上に立つ蒼汰は、普段とは別人のようだった。

ギターを抱え、夢中になって歌っている。

客席には女の子のファンもいた。

何人かは蒼汰の周りを取り囲み、終演後の打ち上げでは、まるで彼女のような顔をしている女の子までいた。節子はそれを見ていた。

普通なら、胸が痛くなるのかもしれない。

嫉妬するのかもしれない。腹を立てるのかもしれない。

けれど節子の心には、不思議なほど何も起こらなかった。

「人気があるんだな」それくらいだった。自分は蒼汰の何なのだろう。

恋人なのか。ただの友達なのか。それとも、お金を貸してくれる都合のいい女なのか。そんな疑問が、心の底に沈んだ。

けれど節子は、それを拾い上げようとはしなかった。

拾い上げれば、何かを決めなければならなくなる。

自分が傷ついているのかもしれないと認めなければならなくなる。

だから、見ないことにした。

十万円と、最初に貸した五万円は、結局返ってこなかった。

節子は請求もしなかった。

蒼汰のバンドは、ライブを重ねていった。まだ地下バンドの域を抜け出してはいない。それでも、少しずつ客は増えているようだった。

成功する可能性は、以前より高くなっている。けれど、それも節子にはどうでもよかった。蒼汰が成功するかどうかと自分が彼にとって何だったのか。十五万円が戻ってくるかどうか。

どれも、心の中では同じくらい遠い出来事になっていた。

ライブが終わると、蒼汰からの連絡は少しずつ減っていった。

最初は数日。そのうち一週間。そして、一か月。

半年が過ぎるころには、完全に連絡がなくなっていた。

外から見れば、明らかだった。節子は利用された。そして捨てられた。

そういうことなのだろう。

けれど節子自身は、怒っていなかった。悲しくもなかった。

寂しいとさえ、あまり思わなかった。

それは強いからではない。傷つかなかったからでもない。

もしかすると節子は、自分が傷つくより先に、相手との関係を「なかったこと」にしてしまう癖があったのかもしれない。

蒼汰との時間を否定したくなかった。

彼が自分を利用したのだとしても、あの夜、隣で眠っていた蒼汰まで嘘だったことにはしたくなかった。

ライブ会場でギターを弾いていた姿も、夢を語っていた声も、本当に存在していた。

だから節子は、それでいいと思った。十五万円が戻らなくてもいい。

連絡が来なくてもいい。自分のことを忘れてしまってもいい。

蒼汰がどこかで夢を追い続けているのなら、それでいい。

そう思うことでしか、節子は自分の中に残ったものを守れなかった。

そしてまた、いつものように何事もなかったかのように、節子は次の日を迎えた。

夢を追いかける人間には、なぜか似たような人間が寄ってくる。

節子自身もまた、まだ何者でもないまま、夢だけを抱えて生きていた。

だから、夢を持つ人間の弱さを責めることができなかった。

自分も同じだったからである。


出ました

業界人のやばい奴!

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