とんでも業界人現る
今回が最終回
ぶっ飛んだ業界人をご紹介します
最終回
とんでもマネージャーと知り合ってしまった節子の様子をご覧ください
俳優・節子の日常は、公演の予定があれば、一か月ほど前から稽古に入る。
朝から晩まで稽古場に釘づけになり、家に帰っても台本を読み、台詞を覚え、翌日の稽古のことを考える。そんな日々が何週間も続く。
一方、公演が決まっていなければ、朝から深夜まで、ときには明け方までアルバイトをする。
俳優として華やかな舞台に立つ一方で、実際の生活は決して華やかではない。
それでも節子は、恵まれているほうだった。
小さな舞台ではあるが、事務所に入ってから数か月空くことはあっても、公演が途切れることなく決まっている。少なくとも、「次の舞台はいつになるのだろう」と途方に暮れるような状態ではない。
そんな日常のなか、ときには、こんなこともある。
ある公演で知り合った、ほかの事務所の俳優から、その事務所のマネージャーを紹介されたことがあった。
「内瀬戸と申します」
丁寧に頭を下げられた。節子もつられて頭を下げ、顔を上げる。
すると、細い目いっぱいに笑顔を浮かべている男がいた。目の中までキラキラしているように見える。第一印象は、悪くなかった。
稽古場にときどき顔を出す内瀬戸と話をする機会も増えていった。
話してみると、少し不器用そうではあるが、率直で、どこか愛嬌のある人だった。
節子は、そんな内瀬戸に好感を持っていた。
ある日の稽古終わり、内瀬戸が、ごく自然な調子で言った。
「稽古終わりに、何か食べていきませんか」
特に深い意味はないと思った。
好意を持っている相手から食事に誘われたのなら、食事くらい受けるのは普通である。
「いいですね。行きましょ」
節子は軽い気持ちで承諾した。それが、ちょっとした事件の始まりになるとは、そのときの節子は夢にも思わなかった。
食事をしたのは、インド料理の店だった。カレーやナンを食べながら、芝居の話や仕事の話をした。楽しい食事だった。
食事が終わると、節子は何の考えもなく財布を取り出した。すると内瀬戸が手を制した。
「貧乏な俳優さんに払わせないですよ」
「え?」
「それに、先々ご縁があって、マネージメントさせてもらうかもしれませんから」
そう言って、内瀬戸は会計を済ませてしまった。
「いいんですか。甘えちゃって」
「大丈夫ですよ」
節子は素直に礼を言った。そのときは、それだけのことだった。
ところが――。
男に食事代を出させると、「この女性は自分と付き合ってもいいと思っているのではないか」と受け取る男もいるらしい。
案の定だった。
その晩から、内瀬戸のLINE攻撃が始まった。
「稽古、どうでしたか?」
最初は、当たり障りのない内容だったので節子も普通に返していた。
ところが、しばらくすると、
「また食事がしたいです」
と来るようになった。
「いいですよ」
節子は何気なく返した。しかし、それを境に、誘いの内容が少しずつ変わっていった。仕事の話ではない。完全にプライベートでの誘いだった。
しかも、毎日のように来る。
「今度、ここへ行きませんか」
あるときは、行きたいところを一覧表にして送ってきた。レストラン、映画、観光地。まるで、これから一緒に出かけることが決まっているかのようだった。さすがの節子も、少し用心し始めた。
男関係については、比較的ラフな節子だった。
しかし、今回の相手は違う事務所のマネージャーである。
仕事を通じて知り合った人間だ。
もし変な関係になれば、あとあと面倒なことになる。
そのくらいのことは、さすがに節子にも分かった。
「どうしよう……」
好意は持っていたし、人として嫌いなわけでもない。
だが、明らかに付き合う対象ではない。
まず、見た目が好みではなかった。
節子は男性に対して、決して高望みをするほうではない。
しかし、太っている男だけは苦手だった。
太っているから人間的にどうこうという話ではない。
ただ、節子は昔から、体臭に敏感だった。
親しくなって、もっと深い関係になったとき、男の体臭が気になるのが嫌なのである。
「いやだなー」
そう思うようになった。
それからというもの、内瀬戸からLINEが来ても、既読をつけたまま返さないことが増えた。
面と向かって、
「あなたとお付き合いするのは無理です」
とはっきり伝えたほうがいいのかもしれない。
しかし、相手がどんな性格なのか、まだ完全には分からない。
もし粘着質な人だったら、あとあと面倒になる。
最悪の場合、ストーカーのようになられたら大変だ。
節子は、なるべく相手を刺激しないほうがいいと考えた。
そこで、既読無視という定番の手法に転じたのである。
内瀬戸は、既読無視をされても、「どうして返事をくれないんですか」といった追いLINEを送ってくることはなかった。
そこは、まともな人だったようだ。節子は少し安心した。
ところが、しばらくすると、とんでもないLINEが届いた。
「あなたと付き合って、膝枕して、耳掃除をしてもらう夢まで描いていたのですよ」
節子はスマートフォンの画面を見つめた。
しばらく、何も言葉が出てこなかった。
「……気持ち悪い」
それが正直な感想だった。さすがに節子も堪忍袋の緒が切れた。
これは放っておけない。
すぐに、内瀬戸を紹介してくれた俳優に連絡した。
事情を説明し、事務所の社長にも話してもらい、内瀬戸がもう節子に連絡してこないようお願いすることにした。
仕事上の付き合いがある以上、直接本人と揉めるより、事務所を通して処理したほうがいい。
それが一番安全だと思った。
その後、内瀬戸からLINEが来ることはなくなった。
稽古場にも姿を見せなくなった。
「内瀬戸さん、最近どう?」
あるとき、紹介してくれた俳優に聞いてみた。
「ちゃんと仕事をしているわよ。あなたのことは、ひと言もしゃべらないわ」
「そうなのか」
節子は安堵した。
少なくとも、今のところは何も起きていない。
しかし、心のどこかには、果たしてこれで本当に終わったのだろうか、という不安が残っていた。
人間関係というものは、始めるのは簡単でも、終わらせるのは難しい。
特に、相手が自分と同じように「終わった」と思っているとは限らない。
節子は、そのことを身をもって知った。
それでも――。
そんなことも含めて、節子の俳優生活なのである。
人間社会である以上、人間関係で悩むことも多い。
思い通りにならないこともある。理不尽なこともある。
それでも節子は、いつか大きな舞台に立ちたいという夢を追いかけている自分に、満足していた。
無慈悲で、無神経で、不親切な事務所のスタッフや社長。
個性豊かなキャストたち。
アルバイト先で出会う、ちょっと変わった人たち。
節子の周りには、まるで台風の目のような強烈な人間が次から次へと現れる。
普通に会社勤めをしている人なら、こんな人たちと毎日のように出会うことはないだろう。
しかし節子にとっては、それも俳優人生の一部だった。
腹を立てたり、落ち込んだり、呆れたりすることもある。
けれど、あとになって思い返してみれば、そんな出来事こそが、人生の記憶として残っていくのかもしれない。
そう思うと、節子は少しおかしくなった。
「まあ、これも経験か」
そう思えるようになった。
そして、それは今の節子にとって、人生の宝物でもあった。
今日も節子は、アルバイト先へ向かっている。
秋の空は、どこまでも青かった。
雲は高く、空気は澄んでいる。
少し冷たい風が、節子の頬を撫でていく。
今日はファーストフード店の清掃を深夜にする。
その前には、コンビニで夜まで働く。
俳優の仕事がない日は、こうして働く。
舞台の稽古が始まれば、今度は朝から晩まで稽古場だ。
その繰り返し。
華やかなスポットライトの下に立つ時間よりも、薄暗い稽古場や、蛍光灯に照らされたアルバイト先にいる時間のほうが、ずっと長い。
それでも、節子は歩いていく。
いつか――。
いつか、大きな舞台に立つ。
満員の客席を前にして、スポットライトを浴びる。
そのとき、自分はどんな顔をしているのだろう。
どんな気持ちで、客席を見つめているのだろう。
節子はふと空を見上げた。
青い空の向こうに、白い雲が浮かんでいる。
その雲の形を眺めていると、ほんの一瞬だけ、いつか大きな舞台に立っている自分の姿が、その雲の中に見えた気がした。
節子は、少し微笑んだ。
今日もアルバイト。
明日もきっとアルバイト。
そして、いつかまた舞台に立つ。
それでいい。
夢というものは、追いかけている間が一番長い。
けれど、その長い道のりを歩いているからこそ、たどり着いたときに見える景色は、きっと美しい。
節子はもう一度空を見上げた。
秋の空は、どこまでも青かった。
そして節子は、その空の下を、今日も自分の夢に向かって歩いていった。
了
今まで読んでいただきありがとうございました
今後も作品を投稿していきますのでよろしくお願いいたします。




