俳優節子の男遍歴をご覧ください
売れない俳優の恋愛事情
これが現実です
そのⅠ 和也
和也と知り合ったのは、節子が俳優養成所に入って間もないころだった。
当時、節子は書店でアルバイトをしていた。和也は、その書店にやって来る客の一人だった。
本屋の店員と客が自然に話をするようになるなど、そうそうあることではない。けれど節子には、なぜかそういうことがたまにあった。
書棚を点検していると、客から声をかけられることがある。
「建築史についての棚はありますか」
そう尋ねてきたのが和也だった。
真面目そうな風貌をしているが、どこか憎めない目つきをした、節子と同い年くらいの大学生だった。
眼鏡をかけていて、これといった特徴もない。どこにでもいそうな男の子、というのが節子の第一印象だった。
だから、そのときは特別な気持ちなど起こらなかった。
「こちらです」
ビジネスライクに案内しただけだった。
ところが和也は、次の日も、その次の日も書店にやって来た。
書店員はレジにいることが多い。それでも和也は、わざわざ節子を見つけては話しかけてきた。
ある日のことだった。
「万引きは多くないですか」
突然、そんなことを聞かれた。
――そんなこと、あんたに関係ないじゃない。
一瞬、そう思った。
――もしかして、あんたが万引き犯なのか。
あまりにも真正面から聞かれたので、驚きと戸惑いのなかに、反発する気持ちまで湧いてきた。
どうやら、その気持ちは顔に出ていたらしい。
「すいません。変なこと聞いてしまって」
和也がそう言うと、節子の気持ちは少し穏やかになった。
「いえいえ。そうなんですよ。万引きは、本屋の命取りになることもあるんですよ」
「やっぱり、そうですよね。やるほうは、あんまり罪の意識がないそうですよ」
「もっとマスコミが、本屋の窮状を伝えてくれればいいんですけどね」
そんな話をしているうちに、節子の心は少しずつ柔らかくなっていった。
人というのは不思議なもので、ほんの少し自分の話を聞いてもらっただけで、その相手を身近な人間のように感じてしまうことがある。
節子もそうだった。
和也が特別なことを言ったわけではない。
ただ、節子が話すことを、和也はそれらしい顔をして聞いていた。
それだけだった。
それだけなのに、節子は少し嬉しかった。
俳優を目指していることも、養成所に通っていることも、まだ何者でもない自分には似合わない夢なのではないかと、ときどき思うことも、和也には話さなかった。
夢というものは、人に話すと急に現実味を帯びる。
そして現実味を帯びた夢は、ときに自分を惨めにする。
だから節子は、夢の話よりも本屋の話をした。
万引きの話や、売れない本の話をした。
そういうどうでもいい話をしているときのほうが、自分が普通の女のような気がした。
そんなことが何度か続いた。
そして、ある日。
「仕事が終わったら、食事でもしませんか」
和也からそう誘われた。
大学生のくせに、女の誘い方が妙に老獪だ、と節子は思った。
自分を狙っているのか。それとも、ただ話をしたいだけなのか。
いろいろな思いが頭の中を交差した。
けれど、こういうときに限って、後先を考えずに行動してしまうのが節子だった。
誘われるまま、駅前のファミレスへ行った。
安いハンバーグを食べながら、和也の話を聞いた。大学のこと。友達のこと。
たいして面白くもない話だった。それでも節子は笑った。
そして、笑った自分をあとになって少し恥ずかしく思った。
――私は、この人のことが好きなのかもしれない。
そう思った瞬間から、和也の存在が、それまでとは違って見え始めた。
惚れやすいのも、節子のいつものことだった。
関係が深まるのに、それほど時間はかからなかった。
これも節子のいつものことだった。
そして、関係が深まったあとになって、だいたい判明することがある。
男がクズなのである。
節子には、クズを呼び込む才能でもあるのかもしれなかった。
節子と付き合う男は、ほとんどがクズだった。
もっとも、節子自身は、それをあまり気にしていなかった。
むしろ、まともな男では味わい深くない。
そんなふうにさえ感じていた。
考えてみれば、節子は昔から、少し壊れたものに惹かれるところがあった。
新品のきれいなものより、どこか傷のついたもののほうが気になる。
誰にも選ばれていないものを見ると、自分だけがその価値を知っているような気がする。
男についても、たぶん同じだった。少し足りない。少しだらしない。少し嘘つき。
そういう男のほうが、節子には妙に現実的だった。
完璧な男と一緒にいる自分を、節子はどうしても想像できなかった。
では、和也はどんなクズだったのか。二股、三股は当たり前。
ひどいときには五人もの彼女を同時に操り、それぞれの女から金を借りては、平然と踏み倒す。
まさに正真正銘のクズだった。節子も三万円やられた。
「ごめんね。そのうち絶対返すから」
そんな常套句には、節子はすっかり慣れていた。
だから、一度も催促などしなかった。
いつも生活に追われている節子にとって、三万円は決して小さな額ではない。
それでも、返さない男を恨むことはなかった。
むしろ、三万円を貸したことで、和也との関係に何かが残ったような気さえした。
金は戻ってこなくてもいい。貸したという事実だけが、二人の間にある。
そんな妙な感覚だった。
もちろん、そんなものは恋愛ではない。
けれど節子には、その違いがよく分からなかった。
付き合う期間が長くなるにつれて、連絡の頻度が減っていくことにも慣れていた。
それが普通なのだと思っていた。
男と女とは、そういうものなのだと思っていた。
最初は毎日のように連絡をくれた男が、少しずつ連絡をしなくなる。
最初は会いたがっていた男が、少しずつ会いたがらなくなる。
その変化を感じながら、節子はいつも自分に言い聞かせた。
――忙しいんだろう。
――男なんて、そんなものだ。
そうやって納得してしまえば、傷つかずに済む。
傷つかないためには、期待しなければいい。
期待しなければ、失望することもない。
節子はいつの間にか、そんな恋愛の仕方を身につけていた。
しかも、ほかに彼女がいることが分かっていても平気だった。
節子と一緒にいるときでさえ、和也は目の前でスマホをいじっていた。
ほかの女にLINEを送っているらしいことに気づいても、節子は何も言わなかった。
何も感じなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
和也が誰と話していようが、自分がここにいることだけは変わらない。
そんな妙な自信があった。
あるいは、自信ではなく、諦めだったのかもしれない。
その違いを、節子は考えたことがなかった。
和也は、出会ったときに感じたとおり、イケメンでもなかった。
特別に優しいわけでもない。
女が惹かれるような要素は、むしろ少ない男だった。
それなのに、和也は女にモテた。
独占欲の強い人間なら、相手がモテることは気になるのだろう。
だが、節子はまったく気にしたことがなかった。
男がほかの女を見ること自体は、どうでもよかった。
ただ、自分のところからいなくなることだけは、どうしても許せなかった。
そこだけは、なぜか譲れなかった。
だからといって、相手が別の女に乗り換えることまで平気だったわけではない。
普段は、相手を拘束するような言動も行動もほとんどない。
ところが、いざ男が別の女に乗り換えようとすると、節子は突然、動物的な勘を発揮する。
そして、取り乱す。
取り乱すというのは、つまり、暴力を振るうということだった。
「私から離れようなんて、百年早いよ!」
そんな昭和の女みたいなことを叫びながら、男に殴りかかる。
その瞬間だけ、節子は自分でも驚くほど素早かった。
それまで何も言わなかった女が、最後の最後になって突然牙をむく。
すると、たいていの男は逃げていく。
本当に、背中を向けて走り去ってしまうのだ。
男が逃げていく背中を見ながら、節子はいつも思う。
――どうして逃げるの。
自分でも、それが分からない。殴ったから逃げたのだろう、そんなことは分かっている。
けれど、そのもっと手前にある気持ちが、節子には分からなかった。
好きだったからなのか。
捨てられるのが怖かったからなのか。
それとも、自分が選ばれなかったことが許せなかったのか。たぶん、全部だった。
しかし、節子はそれを嫉妬心だとは思っていなかった。
自尊心なのだと、自分では信じている。
誰かに負けたくない。誰かに取られたくない。
誰かに「お前ではなく、あの女がいい」と思われたくない。
そういう気持ちは、恋愛というより、もっと原始的な何かに近かった。
だから、いつも節子がそのことに気づいたときには、もう遅い。
どれだけ取り乱そうが、どれだけ追いすがろうが、男は結局、節子を捨てて逃げてしまうのである。
そして男がいなくなったあと、部屋に一人でいると、節子は急に静かになる。
さっきまであれほど腹を立てていたのに、静かになると、なぜか寂しくなる。
それでも泣くことは少なかった。
泣いてしまえば、自分が負けたような気がするからだ。
だから節子は、何事もなかったように次の日を迎える。
そしてまた、誰かと出会う。
たぶん、これからもそうなのだろう。
男が悪いのか。節子が悪いのか。
そんなことを考えても仕方がない。
恋愛に正解などない、と節子は思っていた。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
節子は男に捨てられることよりも、男を好きになれなくなることのほうを恐れていた。
誰かを好きになると、毎日が少しだけ面白くなる。
電話を待つ時間も、会う約束をする時間も、くだらないLINEを読み返す時間も、全部が芝居のように思えた。
何者でもない自分が、誰かに必要とされている。
その錯覚だけで、節子はしばらく生きていけた。
だから、男癖が治らないのだと思う。
いや、もしかしたら、治したくないのかもしれない。
節子自身にも、その違いはよく分からなかった。
ただ、和也との恋が終わったあとも、節子はまた誰かを好きになった。
そして、その男もまた、ろくでもない男だった。
それはまた、別の話。
まだまだ男事情は続きます




