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稽古でむかつき過ぎてどうしよう

公演にはいろんな俳優が集まってくる

超個性的な場合もある

嵐のような人間関係のなかで公演の準備は進んでいく


 稽古中のこと



「この場合は、こうやるのよ」

 

理沙が、節子の耳元で囁いた。

 まただ。

 節子は、心の中で大きくため息をついた。

 ――もう、やめてくれ。

 虫唾が走る。

 反吐が出そうだ。

 あんたは、私よりそんなに台詞の出し方がうまいのか。

 そう言ってやりたい。

 今すぐ。

 けれど、言葉にはできなかった。

「分かったから……」

 かろうじて、それだけを口にする。

「え?」

「いや。なんでもない」

 理沙は節子の顔をじっと見た。

「じゃあ、もう一回やってみて」

「……はい」

 節子は台本を持ち直した。

 腹の中は、ぐつぐつ煮えたぎっていた。

 芝居の稽古が始まるのは、普通なら公演の一か月ほど前だ。

 節子がいつも立っている小劇場なら、それくらいが多い。

 もっと大きな劇場で、予算の大きな公演になると、稽古が半年近く続くこともある。

 キャストの人数も、公演によって違う。

 二十人近くいることもあるし、三人、四人、五人という小さな芝居もある。

 十人前後。

 そのくらいが一番多かった。

 人数が少なければ少ないで、人間関係は濃くなる。

 人数が多ければ多いで、今度は派閥のようなものができる。

 結局のところ――。

 面倒なのは、人間なのだ。

 節子は、自分の性格を特別に難しいとは思っていなかった。

 尖っているわけでもない。

 かといって、何でも笑って済ませられるほど丸くもない。

 ごく普通。

 自分ではそう思っている。

 けれど、世の中にはいろんな人がいる。

 それは、舞台の世界でも同じだった。

 いや。

 むしろ舞台だからこそ、人間性が出るのかもしれない。

 芝居は、みんなで一から作っていく。

 台本を読んで、役を考えて、相手と呼吸を合わせる。

 自分が正しいと思っていることを、相手も正しいと思っている。

 それなら、ぶつかる。

 演出家と役者。

 役者と役者。

 同じ役者でも、芝居に対する考え方は違う。

 育ってきた環境も違う。

 誰に教わったかも違う。

 だから、意見が食い違うことは珍しくなかった。

 ただ――。

 中には、どうしても性格の合わない人間もいる。

 理沙が、そうだった。

     *

 理沙は二十三歳だった。

 大学を卒業して、まだ一年目。

 なのに、舞台経験は節子よりはるかに多かった。

 在学中から、いくつものオーディションに合格している。

 本人も、それを隠そうとはしなかった。

 むしろ、自信にしていた。

 節子には、それが鼻についた。

 いや。

 本当は、もっと前から気づいていた。

 理沙は、節子を見ていない。

 最初から、下に見ている。

 そんな目をしていた。

「そうじゃないでしょ」

 ある日の稽古で、理沙が言った。

 節子は台詞を止めた。

「……え?」

「今のところ。そうじゃないと思う」

 演出家がいる。

 すぐ近くに。

 それなのに、理沙は演出家ではなく、節子に向かって言った。

「どうすればいいんですか?」

 節子は努めて普通に聞いた。

「私の解釈では、こう」

 理沙は、さらさらと説明を始めた。

 節子が口を挟む隙はない。

「ここは、もっと感情を抑えて」

「はい」

「それで、次の台詞に入るときに、ちょっと間を取って」

「……はい」

「分かる?」

「はい」

 分かる。

 言っていることは分かる。

 だから余計に腹が立った。

 節子は演出家を見た。

「演出家さんは、どうですか?」

「そうねえ……」

 演出家は、少し困ったような顔をした。

 それだけだった。

 そして、視線を台本に落とした。

 ――なんなのよ。

 節子は心の中で毒づいた。

 結局、理沙の言うとおりにするしかない。

 演出家が何も言わない以上、それが一番無難なのだ。

 分かっている。

 分かっているけれど――。

 面白くない。

 ものすごく、面白くない。

 どうして私が、あいつの演技指導を受けなきゃいけないのよ。

 喉まで出かかった。

 でも、言えない。

 言ったら、その場はすっきりするだろう。

 たぶん、ものすごくすっきりする。

「私、あなたに演技指導される筋合いないんだけど」

 そう言ってしまえばいい。

 言ってしまえばいいのだ。

 でも、そのあとどうなる?

 公演が終わるまで、気まずい空気が続く。

 周りも気を遣う。

 芝居にも影響が出る。

 演出家にも迷惑をかける。

 ほかのキャストにも迷惑をかける。

 何より――。

 客に申し訳ない。

 客は、そんなことを知らない。

 チケットを買って、時間を作って、劇場まで来てくれる。

 舞台の上で役者同士が仲が悪いかどうかなんて、知ったことではない。

 客にとっては、舞台がすべてなのだ。

 だから、節子は飲み込んだ。

 何度も、何度も、悔しい。

 でも、仕方がない。そう思っていた。

     *

 ある日の稽古だった。

 また理沙が言った。

「そこ、違う」

 節子は黙った。

「もっと違う感じ」

「どう違うの?」

「だから……」

 理沙が説明する。

 節子は聞いている。

 聞いているふりをしている。

 頭の中では、別のことを考えていた。

 ――私は、そうは思わない。

 理沙の言っていることが間違っているとは限らない。

 でも、正解とも限らない。

 芝居なんて、そんなものではないか。

 十人いれば、十通りの解釈がある。

 それを演出家がひとつにまとめていく。

 それが稽古というものではないのか。

 なのに、どうして――。どうして、あなたが決めるの?

「じゃあ、やってみて」

 理沙が言った。

「……分かった」

 節子は台詞を始めた。

 けれど。

「うーん……」

 途中で止めた。

 稽古場が静かになった。

 誰も動かない。

 節子も動かなかった。

 演出家も黙っている。

 相手役も、次の台詞を言えずにいる。

 数秒、たった数秒だった。

 けれど、稽古場では異様に長く感じられた。

 五秒くらいだったかもしれない。

 節子は、ゆっくり頷いた。

「……うん」

 まるで納得したような顔を作る。

「分かった」

 そして、台詞を続けた。

 ――分かってないけどね。

 心の中で、そう呟く。

 そんなことが、何度かあった。

 理沙の指示に従う。

 でも、本当には納得していない。

 その小さな抵抗だけは、どうしても捨てられなかった。

     *

 一つの公演には、大勢の俳優が集まる。

 十人、二十人、ときには、それ以上。

 みんな「いい芝居を作る」という同じ目標を持っている。

 稽古が始まれば、ひとつになれる。

 少なくとも、そうでなければ舞台は作れない。

 でも――。

 稽古が終われば、みんなそれぞれの人間に戻る。

 仲のいい人間同士で帰る。食事に行く人、飲みに行く人たち。

 それぞれ連絡を取り合い、自然とグループができていく。

 別に、誰かが「あなたはこっち」「あなたはあっち」と決めるわけではない。

 気が合う人間同士が、自然に集まる。

 大人だから、表立って対立することは少ない。

 仕事なのだから子どものように喧嘩するわけにはいかない。

 だから、表面上はみんな仲がいいようにふるまう。

 笑って話すし、冗談も言い合う。

 でも、稽古が終われば、それぞれ別の方向へ帰っていく。

 節子が出た公演は、特に女性キャストが多かった。

 だからなのか、グループもできやすかった。

 

 節子は、ある公演の話を聞いたことがある。

 キャスト同士の対立が、かなり激しくなったらしい。

 最初は、ほんの小さな行き違いだった。

 それが少しずつ大きくなった。

 やがてグループ同士が対立するようになった。

 稽古場の空気は最悪で芝居にも、それが出たらしい。

 演出家が何度注意しても直らない。

 とうとう演出家が切れた。

 公演そのものが延期になるかもしれない――。

 そこまでの話だったという。

 その話を聞いたとき、節子は思った。

 ――プロなんだから。

 それくらい、我慢すればいいじゃない。

 でも、そう言い切ることもできなかった。

 なぜなら、自分だって感情が顔に出るからだ。

 腹が立てば顔に出る。

 嫌なことがあれば態度に出る。

 嬉しいときは、もっと分かりやすい。

 だから最近は、できるだけポーカーフェイスを心がけている。

 腹が立っても笑うし、嫌でも頷く。

 納得できなくても、とりあえず「分かりました」と言う。

 それが、大人というものなのかもしれない。

     *

 長い稽古期間の中で、人間関係がこじれる。

 すると、必ず芝居にも影響が出る。

 目線が合わなくなる。

 呼吸が合わなくなる。

 台詞の間が狂う。

 そんな小さなズレが、少しずつ積み重なっていく。

 演出家は、それを見逃さない。

 だから、キャスト同士の空気が悪くなると、すぐに介入する。

 時には、自分が悪者になる。

「いい加減にしろ!」

 と怒鳴る。誰かを叱る。全員を叱る。

 キャストたちの矛先を、自分に向ける。

 そうすることで、役者たちの間に溜まったストレスを逃がす。

 演出家も大変だ。

 節子は、そう思うようになった。

 役者は、自分のことを考えていればいい。

 もちろん、相手役のことも考える。

 でも、基本的には自分の役を生きる仕事だ。

 演出家は違う。

 全員を見なければならない。

 芝居だけではない。役者同士の関係。稽古場の空気。それぞれの感情。

 全部を見ながら、最後には一つの舞台にまとめなければならない。

 ――大変だよね。

 節子は、ふと思った。そして、心の中で苦笑した。

 演出家はつらい仕事だと思う。

     *

 それでも、幕が上がれば関係ない。

 客席には、芝居を見るために来た人たちがいる。

 その人たちは、理沙と節子が仲が悪いことなど知らない。知らなくていい。

 舞台の上では、役者は役者でなければならない。

 腹が立っていても、悔しくても、納得していなくても。

 その瞬間だけは、役として生きる。それが、役者だ。

 節子は台本を閉じた。そして、もう一度開いた。

 理沙のことを考えるのは、やめよう。

 今は芝居だ。

 芝居だけを考えよう。

 そう自分に言い聞かせた。

 けれど――。

 胸の奥に残った小さな苛立ちは、なかなか消えてくれなかった。


超個性的な俳優たちの生態をご覧ください

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