飛んでしまう公演になれた売れてない俳優
やっとオーディションが受かっても飛んでしまう公演もあるので、いつも崖っぷちの思いでいる節子
第10章 決まったはずの舞台
「うそっ……」
メールを開いた瞬間、節子の指が止まった。
一度、読む。
意味が分からない。
もう一度読む。
それでも、書いてあることは同じだった。
本公演は、諸般の事情から中止となりましたので、通知いたします。
オーディションも無効となりますが、本公演の開催が再度決まりましたら、最終オーディションの合格者さまは一次選考を無条件で合格とさせていただきます。
「……は?」
思わず声が出た。
丁寧な文章なのか、不躾な文章なのか、よく分からない。
ただ、一つだけはっきりしている。
舞台がなくなった。
「ちょっと待ってよ……」
節子はスマホの画面を見つめたまま、動けなくなった。
最終オーディションを受けたのは、二週間前だった。
書類選考を通過した。
演技審査を受けた。
そして最後に、主催者や演出家を目の前にして、最終オーディションを受けた。
それを全部くぐり抜けて、合格のメールが届いたのは一週間前。
たった一週間前なのだ。
なのに――もうない。
「……なんなのよ」
ため息が出た。
しかも、今回の舞台は、節子にとって決して小さなものではなかった。
わりと大きめの劇場。
演出家も、そこそこ知られている。
売れていない俳優の節子にとっては、ようやくつかんだチャンスだった。
だから、残念というより悔しかった。
ものすごく悔しい。あと少しだったのに。
そう思ってしまう。
だが、節子は知っている。こういうことは、今回が初めてではない。
公演日時も決まっている。劇場も押さえてある。出演者だって決まっている。
それなのに、公演そのものがなくなる。
これまでにも、何度かあった。
「だったら……」
節子はスマホを握り直した。
「ちゃんと決まってからオーディションしてよ」
もちろん、そんなことを言っても仕方がない。
公演を主催する側にも事情がある。
オーディションは、公演日のだいたい半年前に行われる。
早い段階でキャストを決めておけば、稽古の予定も組める。
最終結果が出るのは、普通なら二週間後。
稽古が始まるのは、公演の一か月前くらいから。
つまり、俳優は半年先の予定を立てられる。
これは、売れていない俳優にとっても大きなメリットだった。
たとえばアルバイト。
出演が決まれば、早いうちにシフトの変更をお願いできる。
店にも迷惑をかけずに済む。
半年先の収入の見通しも、少しは立てられる。
俳優は、売れていないからといって、霞を食べて生きていけるわけではない。
生活費は必要だ。
だから、早く予定が決まること自体はありがたい。
それは分かっている。
分かっているけれど――
決まった仕事が消えるのは、やっぱりきつい。
「……運が悪かったんだよ」
社長にそう言われたとき、節子は一瞬、言葉を失った。
それだけだった。心配するでもない。慰めるでもない。
まるで天気の話でもするように、
「運が悪かった」
それで終わり。
――この人、人のメンタルを心配するという機能がないんじゃないだろうか。
節子は本気でそう思った。
しかも、担当マネージャーに公演中止のことをラインで知らせても、返事は来ない。既読がついている、それだけのこともあった。
「……既読無視?」
節子は画面を見つめた。しばらく待った。来ない。やっぱり来ない。
「この事務所、いったいどうなってるのよ……」
思わず独り言が出た。俳優の事務所なのだ。
だったら、オーディションの情報を送ってくるだけが仕事ではないだろう。
オーディションを知らせる。俳優が受ける。受かったら、出演する。
落ちたら、また次のオーディションを探す。
それだけなら、事務所に所属している意味がどこにあるのだろう。
舞台プロデューサーに、
「この子、使ってみませんか」
と売り込んでくれてもいい。
演出家に、
「節子という俳優がいます」
と紹介してくれてもいい。
そして、オーディションを受けなくても決まるような役を、一つくらい持ってきてくれてもいい。
――そう思う。
でも、それは言えないのだ。なぜなら節子は、売れていない俳優だ。
「お前に役なんか来るわけないだろ」
もしそう言われたら、何も言い返せない。だから、文句を言ったことはない。
以前、社長にこんなことを言われた。
「オーディションと一口に言うけど、個人になってごらんなさい。オーディションの通知なんか来ないから」
それは確かに、その通りだった。俳優歴が長くなれば、それなりに知り合いも増える。演出家から直接声がかかる。主催者から名指しで呼ばれる。
「あの役、やってくれない?」
そんな話が来ることもあるだろう。
けれど、節子にはまだ、そんな人脈はない。
俳優になって数年。名前だけで仕事が来るほどのキャリアはない。
フリーでやっていたら、オーディションの回数そのものが限られてしまうだろう。だから、事務所に所属していることには意味がある。
……それでも。
もう少し、何とかしてくれてもいいんじゃないかと思ってしまう。
節子のオーディション合格率は、一割にも満たない。
十本受けて、一つ受かるかどうか。それが現実だった。
中には倍率などないものもある。
「出たい人は、ご自由にどうぞ」
という公演だ。
そういうものは別として、普通の俳優なら、少しでも大きな舞台に立ちたいと思う。大きな劇場。大きな予算。注目度の高い公演。
できることなら、そういう舞台に立ちたい。
だから、みんな必死になる。
オーディションに落ちて、落ちて、また落ちて。
それでも受ける。
そして、ようやく受かったと思ったら――
公演そのものが飛ぶ。
節子は、この世界の皮肉を何度も味わってきた。
しかも、飛ぶのは大きな公演であることが多い。
小さな公演なら、そこまで複雑な事情は起きない。
けれど、大きな公演になると、いろいろなものが絡んでくる。
劇場。スポンサー。出演者。スタッフ。そして、ときには原作者。
この前、飛んだ公演もそうだった。
原作者と主催者側との意思疎通が原因だったらしい。
詳しいことは、節子には分からない。
ただ、想像はできる。
原作者が公演用の台本の最終稿を見た。そして、首を縦に振らなかった。
公演側としては、それでは困る。当然、話し合いになる。修正するし交渉することになる。そして何とかまとめようとする。
ところが、そのうちに両者の信頼関係が壊れてしまった。そして、どうにもならなくなる。
――公演中止。
たぶん、そんなところだったのだろう。もちろん、本当の事情は知らない。
けれど、出演する側にとっては、事情が何であろうと結果は同じだ。
舞台が消える。仕事が消える。
そして、また次のオーディションを探す。
「たしかに……」
節子はスマホを伏せた。
「社長の言うとおり、運が悪かったのね」
そう言って、自分を納得させるしかない。運が悪かった。それだけ。
そう思うしかない。
それなのに――
やっぱり、悔しい。
「それだけオーディションに落ちて、心が折れないの?」
友人には、よくそう聞かれる。最初の頃なら、答えは違った。
落ちるたびに傷ついた。自分には才能がないのではないか。
向いていないのではないか。そんなことを、いちいち考えた。
でも、人間というのは恐ろしい。
何度も同じことを繰り返していると、落ちることに慣れてしまう。
断られることに、期待して、裏切られることに。
「落ち慣れよ」
節子がそう言うと、友人は呆れた顔をする。
「私にはできないわ」
それがいつもの答えだった。
そして、その友人が同じ質問をしてくることは、二度となかった。
母親は、いつも心配している。
上京して節子の顔を見ると、まず顔色を確認する。
「変わらないから安心したわ」
と、ほっとした顔をする。
「ありがとうね」
節子は笑って答える。
心配してくれる人がいる。それだけでも、自分は幸運なのだ。
最近は、そう思うようになった。
俳優をやっていると、本当にいろいろなことがある。
オーディションに落ちる。仕事がなくなる。決まった仕事がなくなる。
公演が飛ぶ。そんなことを一つ一つ気にしていたら、とても続かない。
だから、気にしない。気にしないようにする。
そうしているうちに、いつの間にか、以前の自分ではなくなっていた。
俳優になる前の節子は、比較的センシティブな性格だった。人の言葉を気にした。些細なことでも傷ついた。誰かの何気ない一言を、何日も引きずることもあった。それが自分だと思っていた。
ところが今は――
そんなものは、どこかへ吹き飛んでしまった。自分が、どういう性格になったのか節子自身にも、よく分からない。
ただ、一つだけ分かることがある。節子は、もう一度スマホを手に取った。
画面には、さっきと同じメールが表示されている。
本公演は中止となりました。たったそれだけの文章。
一週間前なら、飛び上がるほど嬉しかった合格通知。
その合格さえ、今となっては意味がない。
節子はしばらく画面を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……私、ずいぶん図太くなったな」
以前の自分だったら、きっと泣いていた。
今は、泣かない。悔しいし腹も立つ。
それでも、立ち上がれる。
また次のオーディションを受ければいい。
また落ちるかもしれない。そしてまた受かるかもしれない。
そして、また公演が飛ぶかもしれない。
それでも――
やるしかない。
それが俳優という仕事なのだから。
節子はスマホをポケットにしまった。
そして、何事もなかったように立ち上がった。
自分でも、つくづく思う。
――私、ずいぶん図太くなったものだ。
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