第5節「足りない(下)」
「こっちだ!」
若い男に手を引かれ、シャーロットは狭い路地を走る。
頭がぼんやりする。
息も苦しい。
でも止まれなかった。
小屋の中へ飛び込む。
「リナ!」
男が叫ぶ。
薄暗い部屋。
床に敷かれた毛布。
その上で、小さな女の子が苦しそうに呼吸していた。
「はぁっ……はぁ……」
顔は真っ赤だった。
呼吸も浅い。
年齢は五つくらいだろうか。
身体も小さい。
シャーロットはすぐそばへ駆け寄った。
「熱……すごい」
額へ触れる。
熱かった。
嫌な熱だ。
「昨日から急に悪くなって……!」
兄らしき男が震える声で言う。
「薬も買えなくて……っ」
「……」
シャーロットは唇を噛む。
薬がない。
医者も来ない。
スラムでは珍しくない。
でも。
目の前にある苦しさは、本物だった。
「大丈夫だからね」
女の子へ優しく声を掛ける。
返事はない。
苦しそうな呼吸だけ。
シャーロットは小さな手を握った。
「少しだけ、楽になりますように」
暖かな光が溢れる。
いつもより強く。
もっと楽にしてあげたくて。
もっと痛みを減らしたくて。
でも。
「……っ」
ずきり、と頭が痛んだ。
視界が揺れる。
それでも止めない。
光を流し続ける。
「……ぅ」
女の子の呼吸が少し落ち着いた。
苦しそうだった顔も、ほんの少し和らぐ。
「リナ……!」
兄が涙ぐむ。
シャーロットはほっと息を吐いた。
「よかった……」
だが次の瞬間。
どさり、と身体が傾く。
「っ!?」
床へ手をつく。
力が入らない。
「お、おい!?」
男が慌てて支える。
シャーロットの顔色は真っ白だった。
「ご、ごめん……ちょっとだけ……」
「全然ちょっとじゃねぇだろ!」
震える声。
シャーロットは苦笑した。
身体が熱い。
頭も痛い。
でも。
「リナちゃん、少し楽そうだから」
それだけで安心してしまう。
すると。
「……ごめんなさい」
兄が頭を下げた。
「俺、あんたに頼るしかなくて……」
「違うよ」
シャーロットは弱々しく首を振る。
「助けたかっただけだから」
本心だった。
その時。
「だからって、自分が倒れてどうすんだ」
低い声が響く。
振り向く。
いつもの老人が立っていた。
かなり怒っている顔だった。
「……ぁ」
「お前、今日はもう終わりだ」
「でも――」
「終わりだ」
強い口調。
シャーロットは言葉を詰まらせる。
「まだ苦しそうな人……」
「お前が苦しそうだろうが!」
怒鳴り声が小屋へ響いた。
空気が止まる。
シャーロットは目を丸くした。
老人は荒い息を吐きながら続ける。
「お前、自分のこと軽く見すぎなんだよ」
「……」
「助けるのは悪かねぇ。けどな、壊れたら終わりだ」
その言葉が胸へ刺さる。
でも。
シャーロットには分からなかった。
苦しそうな人がいるのに、どうして放っておけるのか。
「……ごめんなさい」
小さく俯く。
老人は深くため息を吐いた。
「謝れって言ってんじゃねぇ」
そう言って、乱暴にパンを押し付けてくる。
「食え」
「えっ」
「今すぐ食え」
硬い黒パンだった。
でも暖かかった。
きっと焼きたてなのだろう。
シャーロットは少しだけ目を丸くする。
「……いいの?」
「いいから食え」
ぶっきらぼうな声。
でも優しかった。
「……ありがとう」
小さく呟き、パンを齧る。
久しぶりの食事だった。
すると。
ぐぅぅぅ……。
お腹が盛大に鳴った。
一瞬、空気が止まる。
それから。
「……っ、ふ」
兄が吹き出した。
老人も呆れた顔をする。
シャーロットは顔を真っ赤にした。
「わ、忘れてっ!?」
「お前なぁ……」
老人は頭を抱える。
でも。
少しだけ空気が軽くなっていた。
苦しいだけじゃない。
笑える瞬間もある。
シャーロットはそれを見て、少し安心したように笑った。
――けれど。
その身体は、確実に限界へ近づいていた。




