第1節「任命前夜」
中央教会の夜は静かだった。
昼間の喧騒が嘘みたいに、大聖堂には静かな空気が流れている。
色硝子から差し込む月明かり。
長い廊下。
規則正しく並ぶ燭台の灯。
「……」
シャーロットは一人、窓際へ立っていた。
手には、一枚の書類。
そこには正式に記されている。
『聖女任命式』
明日。
自分は正式に、“聖女”になる。
「……ほんとに?」
小さく呟く。
まだ現実感がなかった。
地方教会で、“役立たず聖女候補”と呼ばれていた自分が。
中央教会で。
王国の聖女になる。
信じられない。
でも。
それ以上に。
「……怖いなぁ」
胸の奥が重かった。
聖女になったからといって、全部救えるわけじゃない。
むしろ。
届かない命を知ってしまった。
間に合わない現実を知ってしまった。
見えない場所が沢山あることを知ってしまった。
「こんな私でいいのかな」
ぽつり、と零れる。
その時。
「怖いか」
静かな声がした。
「ルナ」
振り向く。
窓枠へ、黒髪の少女が腰掛けていた。
月明かりが白い肌を照らしている。
「……うん」
シャーロットは素直に頷いた。
「聖女って、もっとすごい人だと思ってた」
優しくて。
強くて。
全部救えて。
皆を安心させる存在。
でも。
今の自分は違う。
迷うし。
悩むし。
苦しいものは苦しい。
「届かなかった子のこと、まだ考えてる」
ルナは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「助けたかった」
「ちゃんと助けたかった」
小さな声だった。
「でも届かなかった」
あの時の母親の泣き声が、まだ耳へ残っている。
もっと早ければ。
もっと近ければ。
もっと人がいれば。
助かったかもしれない。
「……」
シャーロットは静かに俯く。
「聖女になっても、全部は無理なのかな」
その問いに。
ルナは少しだけ目を閉じた。
「無理だ」
静かな即答だった。
「……ぅ」
「お前は神ではない」
シャーロットが小さく息を呑む。
ルナは続けた。
「全部救える存在などいない」
残酷な言葉。
でも。
優しい嘘ではなかった。
「……でも」
ルナが静かにシャーロットを見る。
「お前は、手を伸ばせる」
その言葉に。
シャーロットが少しだけ顔を上げる。
「届かないものを知って」
「苦しいと思えて」
「それでも助けたいと思う」
夜みたいに静かな声だった。
「それは、多分大事なことだ」
シャーロットは少しだけ目を瞬かせる。
その時。
ばんっ!
「暗ーい!!」
「ひゃぁっ!?」
勢いよく扉が開いた。
赤髪の少女――フレアだった。
「フ、フレアぁ……」
「任命前夜にそんな顔してどーすんの!」
ずかずか近寄ってくる。
「もっとこう、しゃきーん!ってしなきゃ!」
「擬音で説明しないでぇ……」
フレアがむーっと頬を膨らませた。
「だってシャーロット、また全部抱え込んでる顔してるし」
「……」
図星だった。
フレアはベッドへ飛び込むように座る。
「ねぇシャーロット」
「なぁに」
「今まで、誰が一番頑張ってたと思う?」
「……え?」
突然の問いだった。
「診療所で走り回って」
「苦しそうな人見たら飛んでって」
「倒れてもまた頑張って」
フレアが真っ直ぐ言う。
「そんなの、皆ちゃんと見てるよ」
シャーロットが少し目を見開く。
「聖女ってさ」
「最初から完璧な人がなるんじゃないと思う」
フレアはにっと笑った。
「助けたいって、ちゃんと思える人がなるんじゃない?」
その言葉に。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
その時。
こんこん、と控えめに扉が叩かれた。
「入ります」
エリシアだった。
手には綺麗に畳まれた白い衣装を抱えている。
「明日の式典用です」
「……わぁ」
シャーロットが息を呑む。
白を基調にした聖女衣装。
銀と金の刺繍。
柔らかな聖布。
本当に、“聖女”みたいだった。
「似合うと思います」
エリシアが静かに言う。
「……ほんと?」
「はい」
迷いのない声だった。
「あなたは、もう十分頑張っています」
その言葉に。
シャーロットは静かに衣装を見る。
怖い。
不安もある。
でも。
一人じゃない。
支えてくれる人がいる。
「……」
シャーロットは小さく深呼吸する。
そして。
「……うん」
少しだけ笑った。
「明日、頑張ってみる」
月明かりが静かに部屋へ差し込んでいる。
聖女になる前夜。
少女はまだ未熟なまま。
それでも確かに、一歩ずつ前へ進もうとしていた。




