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第5節「壊れる前に」

その夜。


 診療所には静かな雨音が響いていた。


 外は冷えている。


 けれど室内は薬草の香りと暖炉の熱で、ほんのり暖かかった。


「……ふぁ」


 シャーロットが小さく欠伸をする。


 机の上には開きっぱなしの医学書。


 読もうとしていたのだろう。


 だが途中で力尽きたらしい。


「寝そうならベッド行きな」


 マリアが苦笑する。


「でも、もうちょっと……」


「目が半分閉じてるよ」


「ぅ」


 図星だった。


 エリシアも横で書類整理をしながら小さく息を吐く。


「今日は診療補助もしていたでしょう」


「うん……」


「その後で勉強まで詰め込みすぎです」


 シャーロットはしょんぼりした。


 でも。


「覚えたいから」


 ぽつりと呟く。


「もっと、ちゃんと助けられるようになりたい」


 その言葉に。


 マリアの手が止まった。


「……」


 静かな沈黙。


 雨音だけが聞こえる。


「シャーロット」


 マリアがゆっくり呼ぶ。


「はい?」


「ちょっとこっちおいで」


 素直に近づく。


 すると。


 マリアは、そっとシャーロットの手へ触れた。


「……冷たい」


 ぽつりと呟く。


「え?」


「無理してる手だ」


 シャーロットはきょとんとした。


 マリアは静かにその手を見る。


 細い指。


 小さな手。


 なのに、最近ずっと人へ伸ばし続けている手。


「最近、ちゃんと寝てるかい?」


「ね、寝てるよ?」


「食事は?」


「食べてる!」


「本当かい?」


「……たぶん」


 エリシアが呆れたように目を細めた。


「“たぶん”では駄目です」


「ぅ」


 シャーロットが縮こまる。


 だがマリアは笑わなかった。


 静かに。


 本当に静かに言った。


「壊れるよ」


 その言葉に。


 室内の空気が少し変わる。


 シャーロットは目を瞬かせた。


「……え?」


「そのままだと、いつか壊れる」


 マリアの声は穏やかだった。


 でも。


 重かった。


「人を助けたい」

「もっと救いたい」


 マリアはゆっくり続ける。


「その気持ちは立派だ」


 シャーロットは黙って聞いている。


「でもねぇ」


 マリアは小さく笑った。


「自分を削りながら続ける救いは、長持ちしない」


「……」


「昔の私は、それで失敗した」


 静かな告白だった。


 エリシアも顔を上げる。


 マリアが自分の過去を話すのは珍しい。


「救われる人が増えるほど、止まれなくなった」


 ぽつりぽつりと語る。


「もっと助けて」

「もっと救って」


 期待される。


 頼られる。


 奇跡を望まれる。


「気づけば、自分が空っぽになってた」


 シャーロットの胸が痛む。


 どこか分かってしまったからだ。


 苦しそうな人を見ると、放っておけない。


 少しでも楽になってほしい。


 だから手を伸ばしてしまう。


「……でも」


 シャーロットが小さく呟く。


「苦しそうなのに」


「うん」


「放っておけない」


 マリアは静かに頷いた。


「知ってるよ」


 優しい声だった。


「だから似てるって言ったんだ」


 シャーロットは俯く。


 マリアはそんな少女の頭を、そっと撫でた。


「“救うな”なんて言わないさ」


「……」


「でもねぇ」


 マリアは穏やかに笑った。


「壊れるな」


 その言葉は。


 今まで聞いたどんな言葉よりも、胸へ深く残った。


「一人で全部背負うな」

「頼れ」

「休め」

「食べろ」


 マリアは指を折りながら数えていく。


「あと寝ろ」


「最後だけ圧が強い!」


 思わずシャーロットが抗議する。


 エリシアが吹き出しそうになっていた。


「重要ですから」


「エリシアさんまで!?」


 診療所へ、小さな笑い声が広がる。


 その空気を見ながら。


 マリアは静かに目を細めていた。


 昔の自分みたいな少女。


 危うくて。


 優しすぎて。


 だからこそ。


 今度こそ壊れてほしくなかった。


 雨音はまだ続いている。


 けれど診療所の中だけは、不思議と暖かかった。

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