【第8話】大賢者の書き換え
【第8話】大賢者の書き換え
辺境の空が、圧倒的な白一色に染まろうとしていた。
処理限界を起こした監査結界が、エラーの個別処理を放棄し、領域そのものを物理的に消去する【完全消去モード】の閃光。
大気を焼き焦がす熱線が、容赦なく降り注ぐ。
領民たちを庇うように立つヴィクトリアの頭上で、極限まで圧縮された泥の防陣が、メシメシと悲鳴を上げてひび割れていく。
もはや、限界だった。華奢な肉体は内側から崩壊しかけ、浅く短い呼吸のたびに、気管から錆びた鉄の匂いが噴き出す。爪が泥に食い込み、氷のように冷え切った指先から感覚が消えていく。
(……理不尽ね)
明滅する視界の中で、ヴィクトリアは自身の胸の奥で渦巻く、泥のように重く濁った執着を噛み締めていた。
かつて、魔王としての自分の命を理不尽に終わらせた、憎き男。
それなのに、没落した今、自身の命運のすべてをその男の能力に依存しているという歪な事実。彼を服従させ、ブラック労働を強いているようでいて、本質的な力の絶対差は決して覆らない。心臓の奥が冷たく軋み、同時に、火傷しそうなほどの奇妙な熱が腹の底を焼く。
結界が砕け散る、その寸前だった。
「……あー、寒い。なんで完全在宅勤務の契約なのに、外に出なきゃいけないんだ」
絶望的な終末の風景を切り裂くように、気の抜けた愚痴が降ってきた。
ヴィクトリアが弾かれたように視線を上げる。館の屋根の上。冷たい強風にパジャマをはためかせ、羽毛布団の毛布をズルズルと引きずった大賢者が、ひどく面倒くさそうに立っていた。
「出社(外出)には特別手当を出せって言っただろ。足元が冷えるんだよ」
ゼロスは血走った目で空を睨み、首元の『奴隷紋』へ無造作に指を突き立てた。
彼は防御魔法など展開しない。莫大な質量を持つパージの熱線を、力で相殺するなどという「疲れる(魔力消費が激しい)こと」は絶対にやらない。
ゼロスが目をつけたのは、奴隷紋の奥底――ヴィクトリアが組み込んだ【建国王の血璽】の管理者権限だった。
「システムってのはな、上位権限からの命令には逆らえないんだよ」
ゼロスは奴隷紋の通信経路を逆流させ、監査結界の基幹システムへと極小の魔力を潜り込ませた。
そして、結界が持つ『消去対象』の変数リストの末尾に、たった一行のコードを追記する。
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【結界改竄アラート】
[System] 最終パージモード、対象座標を完全ロック。
[Error] 外部からの管理者権限バイパス接続を検知。
[Process] 『パージ対象変数』のリストを更新中……
[Update] 消去対象に『監査結界システム自身』を追加しました。
[Fatal] 論理破綻。自己矛盾による連鎖崩壊を開始します。
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ピシリ、と。
空を覆っていた幾何学模様に、亀裂が走った。
すべてを消し去るはずだった結界は、「消去対象であるシステム自身を消去する」という自己言及のパラドックスに陥り、自らの莫大なエネルギーを内側へと向けて自壊を開始した。
空が砕ける。
致死の熱線は無害な光の粒子へと変換され、粉雪のように辺境の荒野へと降り注ぐ。国家最高峰の防衛システムが、パジャマ姿の男の「たった一行の書き換え」によって無残に崩壊した瞬間だった。
「よしよし」
美しい光の雨を浴びながら、屋根の上のゼロスは満足げにうなずいた。
「この結界の残骸(魔力)、集めて部屋の床暖房の熱源に再利用できるな。これで光熱費が浮くし、足元がホカホカで究極の安眠環境が整う……」
国家兵器の末路を「単なる空調設備」として喜ぶ大賢者。
その信じがたい光景を見上げながら、ヴィクトリアは口元の血を乱暴に拭い取った。
(……ええ、本当に……腹立たしいほど、規格外の男)
凄惨な微笑みが、彼女の血の気のない唇に浮かぶ。この男を絶対に逃がさない。死ぬまで自分の手元で飼い殺し、そのすべてをしゃぶり尽くす。
ヴィクトリアは冷え切った足を引きずり、屋根から降りてきたゼロスの元へ歩み寄った。
「見事ね、大賢者」
「あ? 当然だろ。さあ、残業代代わりに枕の蕎麦殻を――」
「監査結界の管理者権限を奪取した功績を、高く評価するわ」
ヴィクトリアの氷のような指先が、ゼロスの首の奴隷紋に触れた。
「――これより貴方を、当領地防衛の『最高責任者』に任命する」
ピピッ。
ゼロスの視界に、ポップアップウィンドウが展開される。
『役職:防衛最高責任者に更新されました』
『未決裁の行政タスク(決裁書類):34,512件』
「……は?」
「役職手当は出ないわ。裁量労働制だから。さあ、明日の朝までに決裁を終えなさい」
「やめろおおおお! 名ばかり管理職じゃねえか!! 誰か労働基準監督署を呼べええぇぇッ!」
昇進という名の地獄に叩き落とされた大賢者の絶叫が、美しく輝く辺境の夜空に吸い込まれていった。




