【第40話】強制出陣と労基法違反の野営
【第40話】強制出陣と労基法違反の野営
鼓膜を叩くような重低音が、大地を下から揺さぶっている。
人間界と魔界の国境線――血と硝煙の匂いが立ち込める最前線の野営地。吹き荒れる冬の冷風が、薄い布張りの天幕を容赦なく叩きつけていた。
「ゴホッ……、っ……」
天幕の中央。粗末な木机に広げられた戦況図を見下ろしながら、ヴィクトリアが小さく咳き込んだ。絹のハンカチで口元を押さえる彼女の指先は、雪のように白く、そしてひどく冷え切っている。ハンカチに微かな赤い染みが広がるのを、隣に立つ新魔王ザガンが痛ましい目で見つめていた。
「……無理をするな、ヴィクトリア。お前のその脆弱な肉体では、この前線の冷気は毒だ」
「下がれと言うの? 私が構築した防衛ラインよ。旧式とはいえ、人間の財務顧問の数式にそう簡単に破られはしないわ」
ヴィクトリアの呼吸は浅く、ひどく熱を帯びている。だが、その氷のような視線だけは、冷徹な為政者の光を失っていなかった。
国家の存亡を懸けた、重厚で悲壮なシリアス空間。
だが、その後方数メートル。野営テントの隅で、パジャマ姿の男が血走った目で薄っぺらい布(支給品の寝袋)を激しく叩きつけていた。
「おい……なんだこのペラペラの布は。これでどうやって寝ろって言うんだ!」
大賢者ゼロスが、凍りついた土の地面を指差してキレ散らかしている。
「こんなカチカチの地面で寝たら、俺の腰の椎間板がショートして完全なバグ(ヘルニア)を引き起こすぞ! 明らかな労災案件だろ!」
「……黙りなさいヒモ賢者。ここは戦場よ」
「戦場だから何だ! 危険地帯割り増し手当の申請書はどこにある! そもそも俺は出張命令書にサインしてねえぞ! お前が首輪(100mの強制送還)で勝手に引きずってきたんだろうが!」
遠くで人間軍の砲弾が炸裂する轟音が響く中、ゼロスは上司の背中へ向かってネチネチと無意味な労使交渉を続けている。
極限の戦場において、ただ一人「寝床の硬さ」に命を懸けている男の存在が、野営地の空気をひどく淀ませていた。
「チッ、どいつもこいつも労基法を舐めやがって。……自分の腰は自分で守るしかねえ」
ゼロスは舌打ちをすると、薄い寝袋の下、凍りついた土の地面に両手を押し当てた。
「直接攻撃は契約外だからやらねえ。だが、寝床の環境整備(福利厚生)は俺の正当な権利だ」
ゼロスの指先から、極小にして超高密度の魔力が地脈へと流し込まれる。
---
【結界改竄アラート】
[System] 野営地周辺の環境変数(地盤データ)へ強制アクセス。
[Process] 土壌の分子結合を再定義中。弾性係数を45N(最高級低反発マットレス相当)に調整します。
[Update] 物理演算の書き換えに成功。
[Warning] 余波により、半径500m圏内の地盤が『完全な衝撃吸収体』へと変質しました。
---
ドズゥゥゥンッ!!
直後、人間軍が放った戦略級の質量魔術(岩石砲)が、野営地のすぐ側へ着弾した。
ザガンが「伏せろ!」と叫んだが――爆発は起きなかった。
巨大な岩石が地面に激突した瞬間、野営地の土壌全体が、まるで巨大なスライムか水風船のように「ぼよんっ」と波打ち、数十トンの運動エネルギーを完全に吸収して無効化してしまったのだ。
「……な、なんだと!?」
ザガンが驚愕に目を剥く。
「人間の財務顧問が敷いた完璧な質量破壊の数式が、ただの泥に殺された……!? ゼロス、貴様、どれほどの防衛陣地を構築したのだ!」
「はぁ? 防衛陣地じゃねえよ」
ゼロスは、程よくフカフカになった地面に寝袋を敷き、満足げに寝転がった。
「俺はただ、腰が痛くならないように地面の反発係数を落としただけだ。お陰で最高の低反発マットレスが完成したぜ。……あー、これなら八時間は爆睡できる」
直接的な防御魔法ではない。ただ単に「寝床を柔らかくした(環境変数の書き換え)」という自己中心的な屁理屈の余波が、結果的に敵の軍事ロジックを完全に無力化する絶対防衛の盤面を作り上げていた。
ヴィクトリアが口元の血を拭いながら、呆れたような、しかし微かに口角を上げた視線を向ける。
「……相変わらず、自分の怠惰のためなら世界の法則すら歪める男ね」
だが、ゼロスが毛布に包まり、いざ目を閉じようとした時だった。
ピーーッ、という甲高い魔力信号が、夜の空気を切り裂いた。人間軍による夜襲の合図。無数の足音と、部隊間で交わされる緻密な伝令魔術の波長が、野営地を包囲し始める。
「……あーもう。うるせえな」
ゼロスはパジャマのまま身を起こし、死んだような目で虚空のシステムウィンドウを展開した。
「外がうるさくて寝れねえだろ。……おいザガン、ちょっと黙ってろ。今から敵の『伝令通信のルーティング』を全部書き換えて、右へ行く奴を左へ、攻撃する奴を待機へ変更してやる。あいつら、上司の指示が支離滅裂になって勝手に自滅するぜ」
疲れるから直接は戦わない。
ただ安眠を守るためだけに、大賢者の最悪なサイバー攻撃が始まろうとしていた。




