【第35話】記憶と魔法、上書きされたログ
【第35話】記憶と魔法、上書きされたログ
魔王城、地下医務室。
大賢者ゼロスは、ベッドで横たわる人間の監視官ルシアンの額に右手をかざし、極小の魔力をその脳内へと流し込み続けていた。
「……なるほどな。ただの幻術じゃねえ」
ゼロスはパジャマの袖で汗を拭いながら、死んだような目で虚空に浮かび上がるシステムログ(ルシアンの脳波データ)を睨んだ。
「幻術ってのは、視覚や聴覚に対する『一時的なノイズ』だ。効果が切れれば、必ず『あれはおかしかった』って本人の認識にズレが生じる。だが、こいつの脳内に記録されている『ヴィクトリアに似た女』や『赤い壺』の映像は、ノイズじゃない」
「どう違うの?」
ゼロスから半径100メートル以上離れられないため、強制的に壁際で待機させられているヴィクトリアが、氷のような声で問う。
「こいつのストレージ(記憶領域)に、直接『体験した事実』として【データが上書き保存】されてるんだよ。だから本人は絶対に嘘をついている自覚がない。疑う余地もなく『そうだった』と思い込んでいる」
ゼロスの指先が、虚空のログを激しくスワイプする。
---
【結界改竄アラート】
[System] 対象の長期記憶領域のハッシュ値を検証中。
[Process] 該当時間帯(事件発生時刻)のデータファイルの書き込み日時をスキャン……。
[Warning] 致命的なバグを検知。物理的な体験時間と、記憶の保存時刻に0.02秒のズレが生じています。
[Notice] この記憶は、事後的にインストールされた『フェイクログ』であると断定します。
---
「……人間の記憶すらも完全に書き換える、未知のハッカー。そいつが、あの一見綺麗すぎる殺人現場を作った」
ゼロスは腕を組み、冷え切った声で続けた。
「現場の破片が同じ角度で揃えられていたのも、魔力残滓が少なすぎたのも、俺たちの目を『特定の方向(ヴィクトリアの関与)』へ誘導するために、意図的にデバッグ(清掃)された結果だ。……マジでタチの悪いバグ野郎だぜ」
人間の記憶すら信用できないという、極限の疑心暗鬼。
魔王城全体を巻き込む壮大な精神干渉の存在に、同席していた新魔王ザガンは胃を押さえて蒼白になっている。だがゼロスだけは、冷徹なIT監査官のようにただ「ログの不整合」として事態を処理していた。
「ルシアンの記憶がアテにならないなら、魔族側も調べる必要があるな」
ゼロスは医務室を出ると、ヴィクトリアとザガンを引き連れ(というより100mのリードで引きずりながら)、城内の地下牢へと向かった。
そこには、現場の几帳面さから容疑者として拘束されている文書管理官レメディウスがいる。
「……何の用だ。俺はやっていないと言ったはずだ」
鉄格子の奥で、レメディウスは血走った目でゼロスたちを睨んだ。
「ああ、分かってる。お前の頭ん中を少し覗かせてもらうだけだ」
ゼロスは鉄格子越しに魔力を放ち、レメディウスの脳波にアクセスする。
数分後。ゼロスの表情が、微かに引きつった。
「……おい、レメディウス。お前、事件当日のアリバイがない時間帯だけじゃなく、その前日の昼飯を食った後の数時間も、ログがすっぽり抜けてるぞ」
「な、何を言っている。俺は昨日の昼は……資料の整理をして……」
レメディウスが頭を押さえ、浅い呼吸を繰り返す。
「思い出せない……。いや、記憶がないわけじゃない。だが、その時間のことだけが、どうしても……ッ!」
「アクセスを弾かれてる(拒否されてる)んだよ」
ゼロスは呆れ果てたようにため息を吐いた。
「お前、自分の記憶のフォルダ構成も把握してないのかよ。大事なデータ(記憶)をどこに保存したか忘れてテンパってる、新入社員のパソコン初心者みたいだな」
「なっ……! 貴様、馬鹿にしているのか!」
「してるよ。自分の頭ん中のセキュリティくらい、自前でファイアウォール張っとけ」
深刻な記憶改竄の被害者に対し、理不尽なITハラスメントを浴びせる大賢者。
だが、ゼロスの眼光は笑っていなかった。
「……監視官のルシアンだけじゃない。こいつ(レメディウス)も、何か決定的なことを忘れてる(忘れさせられている)」
ゼロスは鉄格子から一歩下がり、冷たい地下牢の闇を見据えた。
「犯人は、現場の物理的な痕跡と、関係者の記憶を両方書き換えることで、俺たちを『都合のいい結論』へと誘導しようとしている。見えない敵の輪郭が、少しずつ見えてきたぜ」
底知れない狂気を孕んだシステムの暗部。
大賢者による、記憶のバグを巡る知能戦が、いよいよ深淵へと足を踏み入れようとしていた。




