【第29話】綺麗すぎる殺人現場と、半径100メートルの名探偵
【第29話】綺麗すぎる殺人現場と、半径100メートルの名探偵
「俺がやった」
ひび割れた唇から、乾いた音が漏れた。
暗闇の中、冷え切った両手を見つめる。指先にこびりついた赤黒い染みが、ひどく生々しい鉄の匂いを放っていた。
「俺が殺した。……そうするしかなかったんだ」
喉の奥が引きつり、浅く、小刻みな呼吸だけが静寂に溶けていく。
拭っても拭っても、その感触は消えない。
冷たい風が、誰の真意も知らぬまま、ただ無情に吹き抜けていった。
――魔界、ザガンの城。
「なんでこいつらなんだ……ッ」
新魔王ザガンは、執務室の机に両手をつき、胃の腑を押さえるようにうめき声を上げた。
彼の目の前には、血に染まった二枚の報告書が投げ出されている。
被害者は二名。人間との交易再開に尽力していた『物流担当者』と、停戦交渉を進めていた『外交担当者』。いずれも、現在の魔界にとって代えの効かない重要なパイプ役だった。さらに、人間側から派遣されていた監視官・ルシアンも襲撃を受け、重傷を負っている。
「人間と話をしようとしていただけだろう! なぜ殺されなければならない!」
ザガンは顔面を蒼白にさせ、頭を抱え込んだ。
「遺族には……残された家族にはどう説明すればいいんだ! 労災の書類すら、今の魔界の予算じゃまともに降りないんだぞ……ッ!」
凄惨な連続殺人事件を前にして、魔王の口から飛び出したのは、あまりにも生々しく事務的な『遺族対応と補償』への苦悩だった。
重傷を負ったルシアンは、意識が混濁する中、「ヴィクトリアに似た人物を見た」と証言したという。
魔界では「人間が内部崩壊を狙って仕掛けた罠だ」と疑心暗鬼が広がり、人間側では「魔王側が交渉を反故にする気だ」と敵意が膨れ上がりつつあった。
――辺境、領主の館。
「は? 殺人事件の捜査?」
カスタマーサポートの未処理タスクの海で死んだ目をしていた大賢者ゼロスは、信じられないものを見る目で上司を睨みつけた。
「それ、警察か警備隊の仕事だろ。俺、大賢者なんだけど」
「大賢者だからやるのよ」
ヴィクトリアは氷のように冷たい視線で、決裁書類から目を離さずに即答した。ドレスの擦れる音が、執務室に冷たく響く。
「肩書きの使い方が根本的におかしいだろ!」
「この事件を放置すれば、人間と魔族の全面衝突に発展する。そうなれば、貴方のタスクは今の百倍に膨れ上がるわよ」
その一言で、ゼロスの背筋に悪寒が走った。戦争など起きれば、クレーム対応どころか前線での24時間労働が確定する。
「……チッ。わかったよ、やればいいんだろ」
ゼロスは舌打ちをし、乱れたパジャマの襟を正した。
「じゃあ、俺一人で魔界に行って現場を調べてくる」
ゼロスが執務室のドアノブに手をかけ、廊下へと歩み出す。
十メートル。五十メートル。九十九メートル――。
『ビーッ!』
首元の奴隷紋が甲高いアラートを鳴らした直後。
ドンッ! という鈍い音と共に、ゼロスはヴィクトリアの執務机の目の前の床へと強制的にテレポート(送還)させられた。
「…………」
床に四つん這いになった大賢者ゼロス。
「…………」
優雅に紅茶のカップを傾ける元魔王ヴィクトリア。
「……捜査の自由は?」
ゼロスが虚無の表情で問う。
「あるわ」
「移動の自由は?」
「ないわ」
「それは自由とは呼ばない!!」
半径100メートルの見えないリード(GPS)に繋がれた男の悲鳴が響く。
結局、ゼロスは「上司同伴」という、これ以上なく息の詰まる状況で魔王城の事件現場へと赴くことになった。
数時間後。規制線が張られた魔王城の一室。
ゼロスは現場に足を踏み入れた瞬間、微かに眉をひそめた。
---
【結界改竄アラート】
[System] 現場の環境変数(魔力残滓および物理痕跡)をパッシブスキャン中。
[Process] 被害者の抵抗による魔力拡散ベクトルを計算……
[Notice] 異常を検知。魔力波長の散逸率が0.1%未満です。
[Warning] 空間内の物理的な乱数(破壊痕)が意図的に調整された形跡があります。
---
「……綺麗すぎるな」
ゼロスは冷え切った床を指でなぞりながら、低い声で呟いた。
二人の大人が殺害された現場だというのに、椅子の一つすら倒れていない。血痕の飛び散り方には不自然な規則性があり、争った形跡というよりも、まるで『後から配置されたレイアウト』のように整然としていた。




