【第28話】不器用な解放宣言と、最悪のアップデート
【第29話】不器用な解放宣言と、最悪のアップデート
「……いいわ。貴方がそこまで私のもとで働くのが嫌だと言うのなら。……その魔道具を使いなさい」
カビ臭い魔王城の一室。
ヴィクトリアの口から紡がれたその言葉は、絶対零度の静寂を伴っていた。彼女は冷え切った指先でドレスの裾を強く握り込み、顔を背けて冷たい石壁を見つめている。
浅く、不規則な呼吸。首筋に張り付くような微かな血の匂い。己の歪な執着がこの男をすり減らしているという事実をロジカルに計算し尽くした末の、冷徹な元魔王による、致命的なまでの『譲歩』だった。
かつて死闘を繰り広げた二人の間に、張り詰めた、しかしどこか決定的な別れを予感させる静寂が降りる。
ザガンすらも息を呑み、スルメを握りしめたまま硬直していた。
「っしゃああああああああああああああああッ!!」
次の瞬間、大賢者の鼓膜を劈くような絶叫が、その美しくも重苦しい空気を木端微塵に粉砕した。
「聞いたかザガン! 言質(承認)取ったぞ! これで俺はあのクソみたいなクレーム対応から解放される! 明日から一生、ふかふかのベッドから一歩も出ないぞおおお!」
ゼロスは尻餅をついた状態から弾かれたように跳ね起き、両手を突き上げて全力のガッツポーズを決めた。
ピキッ、と。
壁を見つめていたヴィクトリアの額に、青白い静脈が浮かび上がる。
氷のように冷え切っていた彼女の指先が、怒りで微かに震え始めた。少しの感傷も、別れの余韻もない。この男の頭の中には、己の睡眠時間とサボることしか存在していないのだ。
「気が変わらないうちにさっさとフォーマット(初期化)してやる!」
ゼロスはちゃぶ台の上の鈍く光る円盤を鷲掴みにし、自身の首元にある奴隷紋へと押し当てた。
ヴィクトリアからの『口頭での権限放棄』という音声トリガーを受け、魔道具の内部コアが駆動音を上げる。ゼロスは一切の迷いなく、自身の膨大な魔力をデバイスへと流し込んだ。
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【結界改竄アラート】
[System] マスター(ヴィクトリア)の音声承認を確認。
[Process] 古代魔導具のコア・プロトコルを起動します。
[Update] 奴隷紋の『初期化シーケンス』を展開中……
[Warning] 隠しディレクトリ内に【パッチデータVer2.0】を発見。
[Error] 初期化シーケンスは、アップデートのための『再起動処理』に過ぎません。
[Fatal] 強制アップデートを実行します。
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「……は?」
ゼロスの視界に展開されたシステムログの文面に、冷や水のような違和感が走る。
だが、気づいた時にはもう遅かった。
円盤から放たれたまばゆい光が六畳間を包み込み、ゼロスの首元の奴隷紋が、焼け焦げるような音と共に皮膚の上で蠢き始めたのだ。
「が、ああっ!?」
光が収束した直後。
床に転がったゼロスの首には、これまでの簡素な奴隷紋とは似ても似つかない、禍々しく複雑な幾何学模様の刻印が、首輪のようにびっしりと巻き付いていた。
「おい……なんだよこれ。消えるどころか、めっちゃ派手になってるじゃねえか……ッ!」
ゼロスが首元を掻き毟りながら顔を上げる。
その刻印を一目見た瞬間、ヴィクトリアの浅い呼吸がピタリと止まった。
「……貴方、それ。初期化用の魔道具じゃないわよ」
「えっ」
「私が魔王時代に開発して、非人道的すぎるとお蔵入りにさせた……『反逆防止用の強制プロテクト強化デバイス』よ」
「……はい?」
ヴィクトリアは、呆れと、そして腹の底から湧き上がるような奇妙な安堵感を交えながら、凄惨な微笑みを浮かべた。
「そのデバイスの仕様は一つ。奴隷が管理者から半径100メートル以上離れた瞬間、空間座標を強制的に書き換え、マスターの足元へと【強制送還】させるGPS機能付きのプロテクトよ」
静寂。
カビ臭い魔王城の一室で、世界最高峰の頭脳を持つ大賢者は、自身の犯した『利用規約(仕様書)の確認漏れ』という、ハッカーらしからぬ痛恨のヒューマンエラーを完全に理解した。
「う、嘘だろ……? 解除どころか、超絶ブラック契約に改悪されてるじゃねえかああああ!」
「……ふふっ。あははははッ!」
絶叫するゼロスを見下ろし、ヴィクトリアは氷の彫像のような表情を崩し、肩を震わせて笑い声を上げた。
「神様も、貴方には一生私のために働きなさいと言っているのよ。さあ、20万件の未処理タスクが待っているわ」
『ビーッ! ビーッ!』
ゼロスの首元で、進化した奴隷紋が甲高いアラートを鳴らす。
「や、やめろ! 俺は帰らないぞ! この魔王城でザガンと一緒に――」
[System] 管理者との距離が規定値をオーバーしました。強制送還プロセスを起動します。
ゼロスの足元に、禍々しい転移陣が強制展開される。
「ザガーーーーンッ!!」
「ゼ、ゼロスウウウッ!」
手を伸ばすザガン。だが、その手が届くより早く、ゼロスの体は無慈悲な光と共に空間から消え去った。
――数秒後。辺境の領主の館、カスタマーサポート窓口(ただの執務室の隅)。
ドンッ! という音と共に、パジャマ姿の大賢者がデスクの前の椅子へと強制的に着席させられた。
目の前の虚空には、狂ったように点滅する20万件の赤いウィンドウ。
「……お客様、大変、申し訳、ありませんでした……」
虚ろな目で、虚空のキーボードに指を置く大賢者。
感動的な別れはシステムエラーによって無残に散り、究極の安眠を求める男は、再び終わりの見えないクレーム対応の無間地獄へと引き戻されたのだった。




