【第26話】尾行する元魔王と、不器用な感情
【第26話】尾行する元魔王と、不器用な感情
ボロボロの魔王城。ザガンの私室の薄い扉の向こうから、屈託のない笑い声が漏れ聞こえてくる。
『この魔道具で呪縛(ブラック契約)が解けたら、どうするのだ?』
『決まってるだろ。一生、ベッドから出ない。俺だけの、誰にも邪魔されない究極の安眠を満喫するんだ』
環境ノイズと同化する極限のステルス魔法を展開したまま、ヴィクトリアは冷たい石壁に背を預けていた。
ゼロスのその言葉が耳膜を打つたび、胸の奥底で、微細なガラス片が内臓を擦るような鈍い痛みが走った。
浅く、不規則になる呼吸。壁に添えた指先から急速に熱が奪われ、氷のように白く染まっていく。ドレスの擦れるかすかな音すら、今の彼女には酷く耳障りだった。
(……私は、何をためらっているの)
前世。圧倒的な魔力と冷徹な合理主義で魔界を統治していた彼女は、常に玉座で一人だった。現在の部屋の主であるザガンたちでさえ、彼女の絶対的な論理を恐れ、誰も隣に立とうとはしなかった。
彼女の思考速度に追いつき、唯一その論理の隙間を縫って心臓を貫いたのは、他でもない大賢者ゼロスだけだ。
憎悪の対象。復讐のための奴隷。
そう定義づけて【建国王の血璽】を刻んだはずだった。しかし、転生後の領地運営という奇妙な共犯関係の中で、いつしか彼が唯一の「対等な存在」として居座っている。
ヴィクトリアは、自身の内部で発生している致命的な矛盾を、冷徹なロジックで再計算した。
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【結界改竄アラート】
[System] 契約術式『建国王の血璽』の内部変数を再照合中。
[Warning] マスター(ヴィクトリア)の生体魔力に未定義の揺らぎを検知。
[Error] 奴隷に対する『報復』の初期パラメータと、現在の『執着(依存)』の変数間に致命的な論理矛盾が発生しています。
[Fatal] このまま稼働を継続した場合、契約システムはいずれ自己崩壊します。
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ロジックは無情な解を弾き出している。
(……ええ、分かっているわ。私は、今の人間としての役割を気に入っている。これ以上、彼を理不尽な労働に縛り付けておく正当な権利など、もう私にはないのかもしれない)
ドレスの胸元を強く握りしめ、ヴィクトリアは目を伏せた。
冷徹なロジカルモンスターが初めて見せた、致命的なバグ。不器用な歩み寄りと、手放す覚悟。
静寂の中、彼女がそっと扉から離れようとした、その時だった。
『よし、ザガン! 決まりだな! 明日はストライキだ!』
部屋の中から、空気を一切読まないアホみたいな大声が響き渡った。
『ああ! 我々はこれより労働組合を結成し、カスタマーサポートの全面ボイコットを宣言する!』
『要求は完全週休七日制と、最高級の低反発枕だ! あのパワハラ上司の横暴を、これ以上許してなるものか!』
『そうだそうだ! フォントサイズくらいでガタガタ言うな!』
ピシリ、と。
ヴィクトリアの胸の奥で芽生えかけていた繊細なバグ(感情)が、無残に砕け散る音がした。
浅かった呼吸が、スッと凪ぐ。
冷え切っていた指先に、再び絶対零度の魔力が凝集していく。
(……ストライキ、だと?)
環境ノイズと同化していた彼女の極限ステルスが、明確な「殺意」によって物理的な重圧へと変換される。
哀愁も、孤独も、手放す覚悟も、すべてが台無しだった。壁の向こうの底辺社畜たちの低レベルな宴会ノリが、元魔王の堪忍袋の緒を物理的に引きちぎったのだ。
ドガンッッ!!
ザガンの私室のボロボロの扉が、凄まじい衝撃と共に吹き飛んだ。
「ひぃっ!?」
「な、敵襲――!?」
スルメを片手に立ち上がって気勢を上げていたゼロスとザガンが、吹き飛んだ扉の向こうに立つ影を見て、カエルが潰れたような悲鳴を上げる。
舞い散る木っ端とカビ臭い土煙の中。
氷の彫像のように一切の表情を消したヴィクトリアが、ヒールを鳴らして一歩、部屋へと踏み込んだ。彼女の周囲の空気だけが、異常なほどに冷え切っている。
「……ずいぶんと楽しそうね。ストライキの計画かしら?」
絶対零度の視線が、凍りついた二人の男を射抜く。
「きっ、休憩時間中の正当な権利の主張だ! 労働基準法を――」
「黙りなさい。無断欠勤の逃亡者が、どの口で権利を語るの」
美しくも恐ろしい上司の強襲により、魔界の最深部は一瞬にして、血も涙もない労使交渉の修羅場へと叩き落とされた。




