【第20話】疑心暗鬼とリップノイズ
【第20話】疑心暗鬼とリップノイズ
「……あなた、今……私を嗤ったわね?」
荒野を撫でる冷たい風の中、ねっとりとした低い声が這い上がった。
純白の修道服を泥と血で汚した聖女アメリアは、側近の修道士の鼻先数十センチまで顔を近づけていた。カッと見開かれた両目は血走り、微塵も瞬きをしない。
「ひっ……!? い、いえ、アメリア様、そのようなことは……ッ!」
「嘘よ! その目が嗤っていた! 私を、神の代弁者である私を愚弄した!」
アメリアの指が、側近の胸ぐらに乱暴に食い込む。
ギリッ、と奥歯がこすれる音がした。無理な力で噛み締めたせいで、口内の粘膜に新たな血豆が形成され、ぐちゃりと破裂する。
「ツッ……」
アメリアは顔の右半分を痙攣させ、不自然に息を吸い込んだ。
ゴクリ。
生温かく錆びた鉄の味を飲み込む、不快なリップノイズが静寂に響く。
「お前も、あの『膿』に毒されたのね! 私を陥れようとする隠れ膿が、こんな近くにいたなんて!」
側近を荒々しく突き飛ばし、アメリアは振り返って数千の信者たちを睨みつけた。
「他にもいるはずよ! 私を疑う異端が!」
彼女は空を切り裂くように指を振り回し、次々と群衆を指差していく。
「お前! 今、視線を逸らしたわね! お前も! 私の言葉に頷くのが遅かった! 異端よ! 全部、全部浄化しなければ……ッ!!」
ヒステリックな金切り声と、血の混じった唾液が飛ぶ。
ヴィクトリアの突きつけた冷徹な数値によって熱狂を削がれていた信者たちは、突然牙を剥いてきた自らのリーダーに対し、一様に息を呑み、じりじりと後ずさりを始めていた。
バルコニーからその惨状を見下ろすヴィクトリアの姿勢は、氷の彫像のように真っ直ぐだった。限界に近い肉体は浅い呼吸を繰り返しているが、ドレスの裾は微塵も揺れない。彼女はただ、自壊していく狂気を見つめ、冷え切った指先で手すりを撫でていた。
一方、館の客室の窓際。
「あーあ。身内にキレ始めたらプロジェクト(炎上)は終わりだよ」
大賢者ゼロスは、窓枠に肘をつきながら塩気の強い木の実を口に放り込んでいた。カリッ、と乾いた音を立てながら、虚空に浮かぶシステムログを死んだ目で眺める。
「炎上ってのは、常に燃料(敵)を燃やし続けないと維持できないシステムだ。ヴィクトリアにロジックで外堀を埋められて外部への攻撃が塞がれたから、熱狂を維持するために、今度は『内側』に敵を捏造し始めたんだな。完全にクレーマーの末路だ」
ゼロスはパジャマの襟元を掻きながら、冷徹なITコンサルタントの口調で事態を分析する。
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【結界改竄アラート】
[System] エコーチェンバー内のトラフィック動態を監視中。
[Warning] リーダー(アメリア)による内部エラー(異端認定)の過剰発生を検知。
[Process] 信者ネットワークのアルゴリズムが、自律的な自己防衛フェーズへ移行。
[Notice] 攻撃対象のベクトルを再計算。システムの『真のノイズ』を再定義します。
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「だが、外部と遮断された閉鎖空間で、神輿が自ら身内に牙を剥けばどうなるか」
ゼロスの網膜に映る魔力波のベクトルが、一斉に向きを変え始めた。
「同調圧力のシステムは、『最も異質なノイズ』を排除して純度を高めようとする防衛本能を持っている。信者たちにとって、今一番異質で、危険で、論理破綻を起こしている『ノイズ』は……」
広場を埋め尽くす信者たちの間に、小さなさざ波が広がっていた。
『なぜ、私たちの祈りが通じなかった?』
『なぜ、聖女様は我々を疑う?』
『彼女は本当に、神の代弁者なのか……?』
ヴィクトリアが突きつけた『教国の税収減』というファクトと、目の前で血に塗れて狂態を晒す女。
信者たちの視線に宿る色が、完全に反転した。
「見ないで……その哀れむような目で私を見るなアァッ!!」
アメリアは口の端から血を垂らしながら、肩で激しく息をして絶叫した。
「裏切り者! 誰も彼も、私を陥れようとして……っ、痛い、口の中が痛いのよォッ!!」
だが、その声に同調する者はもう誰もいなかった。
静まり返った群衆の中から、低く、重い声が上がる。
「お前こそが……我々を騙していたのだな」
「教国を貧困に陥れ、神の言葉を穢す、真の『膿』はお前だッ!!」
「え……?」
アメリアの顔から、一瞬だけ表情が抜け落ちた。
次の瞬間、数千の信者たちが一斉に両腕を振り上げる。大衆のルサンチマン(怨嗟)が魔力へ変換され、強大な情報トラフィックとなって空を覆った。
しかし、その魔力波の宛先は、辺境の館ではない。
神輿として機能しなくなったアメリア自身へと、すべての矛先が向けられたのだ。
「ち、違う! 違うわ! 私は正し……ッ!!」
ズンッ、と。
数十万の悪意と非難の波が、アメリアの肉体に直接叩きつけられた。物理的な打撃はないはずなのに、彼女の膝が石畳にめり込むような音が鳴る。
「ガハッ……! ア、ァァ……ッ!」
自らが煽り立て、作り上げた正義のシステムの重圧に押し潰され、聖女は赤黒い血を吐き散らしながら、泥の中へと這いつくばった。




