【第13話】トポロジーの反転と、名ばかり管理職の辞表
【第13話】トポロジーの反転と、名ばかり管理職の辞表
酸素が、肺に届かない。
クロノスの展開した『絶対数理結界』に閉じ込められ、辺境の空気は限界まで薄まっていた。
ヴィクトリアの視界が明滅し、石床に崩れ落ちた膝から冷たさが這い上がってくる。泥の防陣はとうに霧散し、毛細血管が悲鳴を上げている。口蓋にこびりついた赤黒い血の匂いが、死の接近を告げていた。
薄れゆく意識の底で、脳裏に一つの情景がフラッシュバックする。
――前世。魔王として、強大な力で世界を蹂躙しようとしたあの日。
空を赤く焦がす絶望の炎を展開した彼女の前に、一人の男が現れた。その男は、世界の危機を前にして、ひどく面倒くさそうに欠伸をしていた。
彼女は全魔力を込めて致死の魔法を放った。だが、男は巨大な結界を張るような「疲れること」は一切しなかった。ただ歩きながら、彼女の術式の隙間へ極小の遅延魔力を叩き込み、すべての炎を無力化したのだ。
冷徹で、理不尽なまでの無駄のなさ。
気がつけば、男の指先が魔王の心臓(魔力核)を正確に貫いていた。圧倒的な暴力ではなく、極限の「効率」によって、彼女の命は終わった。
(……ええ。思い出したわ。あの男の、腹立たしいほどの規格外さを)
ヴィクトリアの血の気のない唇が、わずかに吊り上がる。
その直後だった。
「あー、疲れた。稟議書にハンコ押しすぎて腱鞘炎になるかと思ったぞ」
絶望に沈む館の屋根を蹴る音。
強風にパジャマをはためかせ、羽毛布団の毛布をズルズルと引きずった大賢者ゼロスが、ついにバルコニーへと姿を現した。
目の下には真っ黒なクマが刻まれ、その足取りはふらついているが、彼の双眸は異常なほどの輝きを放っていた。
結界の外側。白亜の軍服を纏うクロノスが、無機質な瞳でゼロスを見下ろす。
「……辺境のイレギュラーか。だが、遅い。数式はすでに完成し、結界内の酸素と魔力は底を突く。お前がどれほどの魔術を放とうと、この絶対数理結界の壁は破れない」
「誰が魔法なんか撃つかよ。疲れるだろ」
ゼロスは首元の『奴隷紋』に指を当て、不敵に笑った。
「あと、お前の書いたソースコード(結界術式)、トポロジー(位相幾何学)の変数の定義がガバガバだぞ。空間を『内側』と『外側』で区切るなら、その基点を絶対座標で固定しておかなきゃダメだろ」
「……何を言っている?」
「俺はさっき、3万件の書類仕事を終わらせて、この結界に対する【管理者権限】をアンロックしたんだよ」
ゼロスの指先から、極微量の魔力が結界の基幹システムへと滑り込む。
巨大な壁を破壊するのではない。結界を構成する数式の『根幹』――空間の位相を定義するパラメーターを、メビウスの輪のように表裏反転させたのだ。
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【結界改竄アラート】
[System] 管理者権限による強制アップデートを実行。
[Process] 空間位相の変数定義『インサイド(内側)』と『アウトサイド(外側)』を反転します。
[Warning] トポロジーの逆転により、結界の効果範囲が反転しました。
[Fatal] 結界外部(王都軍側)の酸素および魔力の削減を開始します。
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ピキリ、と。
空間が裏返るような不快な音が辺境に響き渡った。
次の瞬間、結界の内側にいたヴィクトリアの肺に、冷たく新鮮な空気が一気に流れ込んできた。
「ッ……ゴホッ、ハァッ……!」
むせ返るヴィクトリアの目の前で、信じがたい光景が広がっていた。
結界の外側に陣取っていたクロノスの軍勢が、突如として首を掻き毟り、次々とその場に倒れ込み始めたのだ。
「な、なんだこれは……! 息が、吸えない……ッ!?」
感情を排していたはずの兵士たちが、極度の酸欠と魔力枯渇にパニックを起こす。
クロノスは自身の【演算宝珠】を見つめ、初めてその無機質な瞳に驚愕の色を浮かべた。
「馬鹿な……数式が、反転しているだと? 奴らではなく、我々が結界の『内部』に閉じ込められているというのか……!」
完璧だった数式は、大賢者のたった一行の書き換えによって、敵自身を閉じ込める見えない牢獄へとすり替わった。
「……全軍、撤退! 結界の維持を放棄せよ!!」
クロノスは血を吐くような命令を下し、統制を失った軍勢と共に王都の方角へと逃げ去っていった。主を失った結界は光の粒子となって崩壊し、辺境に美しい夜明けの光が差し込む。
「ふはははッ! 見たか! これが完全在宅勤務の力だ!」
屋根の上でガッツポーズを取る大賢者。
ヴィクトリアは冷え切った指で石床を支えながら立ち上がり、凄惨な微笑みを浮かべた。
(……ええ。やはり貴方は、最高に理不尽な私の奴隷よ)
数時間後。
館の客室に戻ったゼロスは、ヴィクトリアの前に深々と土下座をしていた。
「なあ! 頼む! 敵は追い払っただろ! だから俺を『防衛最高責任者』からヒラ社員に降格させてくれ! あんな大量の書類仕事、もう二度とやりたくない!」
国を救った英雄の最後の一言が、まさかの降格願。
ヴィクトリアは紅茶をすすりながら、冷たく見下ろした。
「却下よ。貴方は見事に役職の責務を果たしたわ。だから、これからも私のために働きなさい」
「鬼! 悪魔! 元魔王!」
ゼロスは涙目で抗議しながらも、疲労困憊の限界を迎え、ふかふかのベッドへと倒れ込んだ。
「……まあいい。とにかく今日は、泥のように眠る……」
大賢者が深い安眠に落ちてから、数時間が経過した翌朝。
『ビーッ! ビーッ! ビーッ!』
首元の奴隷紋が、耳をつんざくような甲高いアラートを鳴らした。
「……は? な、なんだよ……」
跳ね起きたゼロスの視界に、無機質なポップアップが展開される。
[System] 独立都市国家の設立に伴い、他国(神聖教国・氷の帝国)からの外交文書を受信しました。
[Notice] 防衛最高責任者の新規タスク(決裁書類)『100,000件』が追加されました。納期は本日17時です。
「いやあああああああああああああああああッ!!」
究極の安眠を求める大賢者の絶望の悲鳴が、新しい朝を迎えた領地に虚しく響き渡った。




