【第12話】絶対数理結界と、差し戻しの稟議書
【第12話】絶対数理結界と、差し戻しの稟議書
空気が、存在しない。
辺境の空を完全に覆い尽くした完全な立方体――『絶対数理結界』。
王都から進軍してきた新体制の頭脳・クロノスが展開したそのシステムは、外部からの物理・魔力干渉を一切遮断するだけでなく、内部の酸素と魔力を規定値まで強制的に削減する無慈悲な空間だった。
「非効率な泥は、数式によって淘汰される。それが新体制の『聖域なき改革』だ」
結界の外側。白亜の軍服を纏ったクロノスが、無機質な瞳で辺境を見下ろしている。
領主の館のバルコニー。
ヴィクトリアは膝を突いていた。極限の魔力圧縮で泥の防陣を展開しようとするが、放たれた魔力は結界の青白い壁に触れた瞬間、数式によって「ゼロ」へと変換され、霧散していく。
強引な魔力行使の反動が、脆弱な肉体を内側から破壊する。喉の奥でゴボリと不快な音が鳴り、赤黒い液体がドレスを凄惨に汚した。浅く短い呼吸のたびに、錆びた鉄の匂いが鼻腔を突き抜ける。服が擦れる音さえ痛ましく、氷のように冷え切った指先が、絶望を拒絶するようにバルコニーの石床を掻き毟った。
その頃。館の客室でも、大賢者が酸欠によって死の淵を彷徨っていた。
「ハァッ……ハァッ……あと2908件……ッ!」
ゼロスの視界もまた、暗いノイズに侵食されている。
だが彼は、迫り来る死の恐怖よりも、目の前に浮かぶ無数の電子羊皮紙に対する怒りで血走った目をひん剥いていた。
「おいザガン! 第4書式Bの印鑑の位置が1ミリずれてるぞ! なんでこんな時に限って差し戻し(エラー)を出してくるんだよ! やり直し!」
通信の向こうで、新魔王が息を喘がせながら怒鳴り返す。
『知るか! 魔族にミリ単位の書類仕事をさせるからだ! それより早く結界をどうにかしろ、息が……ッ』
「俺だって息ができねえよ! だが管理者の権限ロックを解除しないと、結界のソースコードに触れないんだ! 責任者印を押す手を止めるな!」
死のカウントダウンが進む中、世界最高峰の頭脳を持つ大賢者は、結界を破壊するためではなく「稟議書を通すため」に極限の集中力を割いていた。
しかし、限界が近づく意識の中で、ゼロスの脳裏に一つのロジカルな屁理屈が閃く。
「……待てよ。クロノスの結界は、外部からの介入を弾く仕様だ。だが、内側(辺境)で発生する事象は、常に監視・計算しているはずだ」
ゼロスは残りの2900件の未決裁タスクのデータ構造を開く。
「外から攻撃できないなら、内側で意図的にエラー値を膨張させればいい。結界の監視システムのメモリを、内側から圧迫してやる」
ゼロスはハンコを押すのをやめ、未決裁の書類データに、無限に増殖する自己矛盾のダミー変数を組み込んだ。
---
【結界改竄アラート】
[System] 結界内部の変数変動を監視中。
[Error] 内部データ領域にて、異常な容量膨張を検知。
[Warning] 未決裁タスクデータのサイズが規定値を突破。監視用メモリを圧迫しています。
[Process] 結界の維持リソースを、内部エラーの検閲処理へ強制リダイレクト。
---
「……結界の壁が、薄くなっている?」
血を吐きながら、ヴィクトリアは空を覆うグリッド線が不規則に明滅し始めたことに気づいた。
結界の処理能力が、内部の「無限に増殖する書類データ」の検閲に気を取られ、物理的な遮断強度が落ちているのだ。
「よし、結界のファイアウォールに穴が空いた!」
ゼロスは薄れゆく意識の中で、最後の一枚の稟議書に乱暴に魔力印を押し付ける。
『ビーッ!』
[System] 全行政タスクの決裁が完了しました。防衛最高責任者の【管理者権限】をアンロックします。
「終わった……終わったぞおおおッ!」
ついにデスクワーク(地獄)から解放された大賢者は、毛布をズルズルと引きずりながら立ち上がった。
「さあ、残業代の代わりに、あのクソ真面目な数式を丸ごと書き換えてやる」
限界を迎えたヴィクトリアの視界が暗転する寸前。
彼女の耳に、屋根を蹴る大賢者の足音と、呆れるほど呑気な欠伸の音が届いた。




