相談No.3 トムおじいさん
『南西通り水晶店』には、かれこれ三年近く通っている「常連のお客様」もいます。
それがこの、曲がった腰をいたわりながら杖をついて歩く、トムおじいさん。いつも同じ服なので、ウールのジャケットは穴があき、すそはほつれてボロボロです。
「トムおじいさん。おはようございます」
「やぁ、やぁ。今日もよろしく」
陽気に手を上げ、魔術師のイリオに支えられながらソファに座りました。
「これ、嬢ちゃんに」
トムおじいさんの趣味は釣り。店番のスウィルトが虫を、それも水っぽい幼虫を好んで食べる異食症であることを知っていて、エサ用の幼虫を持ってきてくれます。
「いつもありがとうございます」
「いいんだよ。私はもう、釣りには行けないから」
イリオは手際よく呪文を唱え、トムおじいさんに魔力を移しました。
元冒険者のトムおじいさんは、今はこの街で一人、余生をのんびりと過ごしています。そしてこの店では珍しく、レーベリヤから借金をしていない客でもありました。
なるべく借金をしてくれたほうが利益になるので、店にとっては「儲からない客」です。でも、イリオはトムおじいさんの明るい人柄を好いていましたし、客の顔を覚えないスウィルトでもトムおじいさんだけは別でした。
なので、そんな彼が一週間店に顔を見せなくなった時には、さすがに少し気がかりでした。
時は少しさかのぼり、トムおじいさんが亡くなる一週間前のこと。
アパートの隣の部屋の住人は、この老人が孤独ではないことを知っていました。トムおじいさんに負けないくらいヨボヨボの「猫」がいたのです。
トムおじいさんはいつも猫を抱き、ベランダで陽に当たります。彼を昔から知っている大家の話によると、あの猫は三十年は生きているだろう、とのこと。それでも猫は一人で歩き、たまに住民が鶏肉を投げ入れてやると、尻尾をピンと立て嬉しそうに平らげます。小麦色の身体に縞模様の、どこにでもいる普通の猫でした。
トムおじいさんは亡くなるその日まで、猫と一緒に日向ぼっこをしていました。ロッキングチェアの、ギイ、ギイという音が止まったとき、住民は何か嫌な予感がして、ベランダに出て彼に声をかけました。
初めは、春の日差しが心地よくて寝入ってしまったのだと思いました。幸いにもその住民は医者で、異変にはすぐに気づきました。
アパートの住民たちは、彼の死を嘆き悲しみました。
そして、彼の猫もほぼ同時に死んだと知って驚きました。
まさか彼が「魔法で猫に自分の寿命を分けていた」とは、誰も想像できなかったでしょう。トムおじいさんは、自身の死期を悟ると、それ以上猫へ与える寿命も残されていないと気づき、静かに終わりを受け入れたのでした。
はたから見れば、一人と一匹は奇跡のようなタイミングで、共に天へと召されたのです。これ以上の相棒はいないだろうと、住民たちは十字架の前で涙を拭いました。
大家が授かっていた遺言によると、家具や釣り道具はアパートの住民に分け与えるとのこと。とはいえ住民たちは、そんな泥棒のような真似はできないと、しばらく部屋をそのままにしていました。
ある日、派手な身なりをした集団がアパートに押し寄せました。彼らは自身を「トムおじいさんの家族」だと言い、「資産はどこか」と聞いてくるのです。
「この部屋にある物が、すべてだと思いますが?」
「そんなはずはない!」
なんとトムおじいさんは、隣町では名の知れた実業家でした。
冒険者時代に稼いだ金で大型船を購入し、海運ギルドを立ち上げ、船主として商人たちに船を貸し出すことで莫大な利益を生み出していました。しかし、妻や子はもちろん、叔父や叔母、顔も知らぬ親族、さらにはかつて冒険を共にした仲間にまで口を出されるようになり、やがて意見が対立すると、ついにはトムおじいさん自身がギルドを追い出されてしまったのでした。
しかし、そこはやり手のトムおじいさん、船の名義だけは最後まで自分のものにし、利益の一部が自分へ流れるよう手を回していたのです。親族たちはその仕組みに気づかず、名義の存在すら知らないまま、トムおじいさんの死後、商会から「次はどなたの名義にされますか」と聞かれたことで、ようやく事態を理解したのでした。
「じいさんを追い出して三十年、溜まりに溜まった資産があるはずだ! 本来は我々が受け取るべきだった金が!」
「そう言われましても……」
大家はいまいちピンときません。それもそのはず、トムおじいさんは、財産のほとんどを魔力を買うために使い果たしており、いつも質素な生活をしていました。
服はいつもボロボロ、見かねた住民がたまに古着をあげるほどでしたし、趣味の釣りから帰ってくると「一週間ぶりの食事だ」と冗談を言うような、一見すると貧しいおじいさんだったのです。
しかし、一つだけ心当たりがありました。
イリオが水晶を磨いていると、派手な集団が店に入ってきました。
依頼人ではないことなど、すぐに察せます。両手をローブに隠し、いつでも魔法が発動できるよう、内側に縫い付けられた魔法陣に指先で触れました。
「『ラジエル港湾連合』の、ベック・ラジエルだ。トーマス・ラジエルの息子だ」
「……どちら様ですか?」
「しらばっくれるな。親父がこの店を出入りしていたんだろう? 金を受け取っていたんじゃないのか?」
イリオは脳内の引き出しをひっくり返し、そんなギルドと関りはないし、名前も初耳だし、このおじさんの父親ということはかなりの高齢だろうが……とあれこれ頭をひねった後、「もしかしてトムおじいさん?」と正解を導き出しました。
「ここはなんだ? 水晶を売っているのか?」
「ええ。一品物ですよ」
「こんなガラスの玉が1千万ディーツ!? 親父はこんな物を買っていたのか!?」
「それは当店でも最上級クラスのお品で──」
「ふざけるな!」
怒鳴ったベックが水晶を叩き落としますが、それが床にたどり着く前に、イリオは浮遊の魔法で支えます。「魔術師……!?」とうろたえる様子を見るに、魔法が一般的でない地域か、魔物がいない都市の出身か。トムおじいさんが普通の老人ではないとは、イリオも薄々感じていましたが、ただ一つ確信が持てるのは、彼はもうこの世にいないのだろうということでした。
家族と名乗る者たちの目を見れば、すぐに分かります。
彼らがトムおじいさんをどう思っていたのか、何を欲しているのか。彼らが遺産を求める理由は、トムおじいさんの墓に花を供えるためでしょうか。故郷でもう一度、立派な葬儀を行うためでしょうか。
いえ、そのどれもなくたって、トムおじいさんは平気かもしれません。彼はきっと、本当の家族よりも温かな人たちに囲まれて、何の未練もなく旅立ったに違いありません。イリオはなぜかそう思えました。
「トムおじいさんは、この子の”治療費”を寄付してくれたんですよ」
イリオはスウィルトを呼び寄せました。
小さな唇から、よだれが床にこぼれ落ちました。スウィルトは何かをクチャクチャと噛みながら、ぼーっとベックを見上げます。
「ええと、ほら、見ての通り……重い病気を抱えた子です。おじいさんの寄付のおかげで手術を受けられて、生き延びることができました。ご家族ということであれば引き取ってくれませんか?」
「いや、それは……」
スウィルトは、たじろぐベックに歩み寄ると、その隣にいた女の香水の匂いに顔をしかめました。次の瞬間、「ゲエェッ」とえづき、その場で胃の中のものをぶちまけてしまいました。
「うげぇっ!?」
「うわっ、大丈夫か、スウィルト!?」
吐瀉物が、ベックの新品のコートへ飛び散ります。
その中に混じっていたのは、およそ食べ物とは思えないもの──噛みちぎられた幼虫や、何かの羽根や、胃液の中でぴくぴくとうごめくトカゲの尻尾など。
「ギャアアアーーーー!」
絶叫が通りに響き渡り、集団は足をもつれさせながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていきました。
***
『南西通り水晶店』は、今日は早めの店じまい。
閉店後にスウィルトを寝かしつければ、ようやく一人の時間です。
「これ、どうしよう……」
イリオは積み上げられた木箱を前に、頭を抱えました。
あの騒動のあと、店には別の来訪者が現れました。
アパートの住民たちは木箱を抱え、「トムおじいさんが世話になったと聞いたから」と、欲しいとも言っていない彼の遺品を次々と置いていったのです。
翌日、水晶屋にはなぜか、古びたチェス盤や革の小銭入れ、釣竿などの商品が並びました。
その中で一つだけ、イリオが受け取ったものがあります。
猫の毛にまみれたひざ掛けだけは、スウィルトがすっかり気に入ってしまい、抱きしめたまま離そうとしなかったのでした。
しばらくの間、水晶店の店主のローブには、飼ってもいない猫の毛が、取っても取っても残っていたそうな。




