第1節:開かずの封筒
十月の風は、初夏のそれとは違って乾燥し、校舎の隅々に溜まった静寂をかき乱すように吹き抜ける。
文化祭まであと二週間。
浮足立つ生徒たちの喧騒は、僕にとって耐え難いノイズの増幅でしかない。
廊下には中途半端に切り出された段ボールが散乱し、ペンキの匂いが僕の計算された呼吸を乱していた。
「……ふむ」
自分の席に座ろうとした僕の動きが、わずか数センチのところで停止した。
机の天板、その幾何学的な中心点から一ミリの狂いもなく、一通の封筒が置かれていたからだ。
封筒は、近年の白すぎる事務用品とは異なる、わずかに黄ばんだ和紙のような質感だった。
糊付けされた跡はなく、蜜蝋のような赤い封蝋で厳重に封印されている。
その紋章は、我が校の旧校章を象ったものだ。
「わあ、何それ! ラブレター? それとも果たし状?」
背後から、期待に満ちた紬の語気が飛んできた。
彼女の首からは、文化祭実行委員の証である不揃いにラミネートされたパスがぶら下がっている。
「瀬戸口、落ち着け。指紋をつけるな。……これは、ただの郵便物ではない」
「えー、でも律くん宛てでしょ? 住所も書いてないのに机にあるなんて、ロマンチックじゃん」
僕は指先を汚さないよう、筆箱から取り出したピンセットで封筒を慎重に持ち上げた。
重さは推定五グラム。中には厚手の紙が一枚入っている感触がある。
僕は封蝋を傷つけないよう、カッターの刃を封筒の端に滑らせた。
一ミリの歪みもない直線で、その「過去」を切り開く。
中から滑り落ちたのは、一枚のチケットだった。
活版印刷特有の凹凸があるその紙面には、重厚なフォントでこう記されていた。
秋桜祭 演劇部公演
『鏡の向こう』
日時:十月二十五日 14:00 開演
場所:旧講堂 特設舞台
「……『鏡の向こう』? 変だね、今年の演劇部の出し物は『銀河鉄道の夜』のはずだよ」
紬がチケットを覗き込み、首を傾げた。
「いや、問題はそこではない」
僕はチケットの最下部、発行年が印字された箇所を指差した。
「日付を見てみろ。十月二十五日。……去年の日付だ」
一年前の文化祭。
最終日の午後に予定されていた演劇部の大舞台。
それは、開演の十分前に起きた「舞台照明の落下事故」によって、幕が上がる直前に中止となったはずの公演だ。
以来、舞台機材の老朽化が問題視され、旧講堂は立ち入り禁止の廃墟と化している。
「一年前の、上演されなかった劇のチケットが、なぜ今、僕の机にある?」
僕はチケットの裏面を確認した。
そこには、昨日の放課後にはなかったはずの、湿った青いインクのスタンプが押されていた。
『 招待状:あなたを、未完の終幕へお連れします 』
窓から差し込む秋の斜光が、チケットの黄ばんだ紙面を不気味に照らし出した。
一年前の事故。
未完のまま終わった舞台。
僕の秩序立った日常の中に、時間軸を無視した「未解決の過去」が、音もなく侵入してきた。




