第5節:暫定的な解と、胸の騒ぎ
逆光の中に立つ影は、僕たちの姿を認めると、小さく肩を震わせた。
夕闇の化学室に、カッターナイフの刃を戻す「カチカチ」という乾いた音が、不協和音のように響く。
「……美術部一年、深町梓さん。だね」
僕が静かにその名前を呼ぶと、彼女は幽霊のような足取りで、教卓の影まで歩み寄ってきた。
「……先輩。どうして、ここだと分かったんですか」
「消去法と、いくつかの決定的な物証だよ」
僕は棚から引き出した「塊」を指し示した。
「まず、物理的な動線だ。君の所属する美術室は旧校舎の三階、この化学室の真上にある。そして君は朝、一階の昇降口から階段を上がる際、必ず僕のクラスがある二階の廊下を経由する。僕の消しゴムが削られたのは、君が美術室の鍵を取りに行く時間帯と完全に一致している」
「でも、それだけじゃ……」
「決め手は、君の靴だ」
僕は彼女の足元を指差した。
彼女が履いているのは、標準の上履きではない。
美術部での作業用に許可されている、底の厚いコンフォートシューズだ。
そのラバーソールには、絵具の汚れを防ぐための特殊な溝がある。
「百葉箱の前の湿った土に残されていたのは、その特殊なソールの跡だ。さらに言えば、右のかかと部分にだけ、君がデッサン時に無意識に床を叩く癖でついた『独特の削れ』がある。これは、この学校で君の靴にしか存在しない固有の識別番号だ」
深町さんは、自分の足元を力なく見つめ、やがて俯いた。
「……掲示板のポスターも、そう。君の描く世界には、一つも『角』がなかった。定規で引いたような直線を嫌い、曲線を愛する君にとって、この学校の備品が持つ『完璧な直角』は、よほど鼻につくものだったんだろう」
深町さんは俯いたまま、力なく笑った。
「鼻につく……なんて、そんな軽いものじゃありません。私にとって、それは……」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、犯人としての邪悪さではなく、追い詰められた動物のような切実さが宿っていた。
「先輩。この学校の椅子も、机も、教科書の文字も。どうしてこんなに尖っているんですか。すべてが私を、正しい形に矯正しようとして、刺してくるんです」
僕は彼女の言葉を、論理のフィルターにかけて解析しようとした。
しかし、「刺してくる」という主観的な訴えは、僕のデータベースのどこにも適合しなかった。
「だから、一番綺麗で、一番正しい『角』を少しずつ奪って、こうして丸い塊に閉じ込めたかった。そうすれば、いつかこの世界も丸くなって、私を刺さなくなるんじゃないかって……。そんなの、先輩には笑われるでしょうけど」
彼女の告白は、僕の論理回路には存在しない「感情」という名の変数だった。
几帳面な僕にとって、角は安心の象徴だ。
だが彼女にとっては、それは自分を切り刻む凶器だった。
同じ「形」を見て、これほどまでに解釈が異なる。
これは、僕の数式には一度も登場したことのない、解のない方程式だった。




