第3節:分岐点(非論理的な正解)
数日後。
紬の家は、ついに「空っぽ」になる日が決まった。
リビングには段ボール箱が数個だけ並び、かつてこの家を支配していた怒号も、今は湿った静寂に取って代わられている。
紬は、一時的に親戚の家へ身を寄せることになった。
「……律くん。私、明日ここを出るよ」
紬が、空になった本棚の跡を見つめて言った。
その声には、以前のような絶望ではなく、重い荷物を下ろした後のような、ひどく脆い平穏が混じっていた。
「親戚の家は、ここから電車で二時間。……たぶん、学校も転校することになると思う」
僕の心臓が、不規則なリズムを刻んだ。
二時間。
往復四時間。
それは僕の分刻みのスケジュールを物理的に破壊し、彼女を「日常」という観測範囲外へ放逐するのに十分すぎる距離だった。
「……論理的な帰結だな」
僕は自分の声が、自分でも驚くほど落ち着いていることに気づいた。
「君の安全と、生活の再建を最優先にするならば、その選択が最も生存確率を高める」
「……そうだよね。律くんなら、そう言うよね」
紬が寂しそうに微笑んだ。彼女は、僕が「正しい判断」を下すことを期待し、同時にそれを恐れていた。
だが、僕は続けた。
「だが、それはあくまで『一般的な正解』だ。僕の個人的な演算結果は、別の答えを出している」
僕はペンケースから、かつての事件で回収した「不自然なテグス」を取り出した。
それは、ある生徒が自分の居場所を作るために、目に見えない糸で教室を繋ごうとした時の残骸だ。
「二時間の距離を『遠い』と定義するのは、移動時間を損失と考えるからだ。……しかし、その四時間を君との『対話のデータ蓄積』に充てるならば、それは損失ではなく、必要なコストへと変換される」
「え……?」
「僕は、週末ごとにその二時間を超えて君の元へ通う。平日も、デバイスを用いた非同期的な通信によって、君という変数の観測を継続する。……紬、僕は君を『整理』して終わらせるつもりはない。これは、遠隔地における共同研究への移行だ」
「……バカだよ。律くん、本当にバカ。そんなの、全然効率的じゃないし、君の自由な時間がなくなっちゃうよ」
紬が泣き笑いのような顔で僕を睨んだ。
「自由な時間など、君がいない退屈な秩序の中には存在しない。……それに、これは僕からの提案だ。いや、もはや一方的な『予約』と言ってもいい」
僕は、彼女の手にテグスの切れ端を握らせた。
目に見えないほど細く、けれど簡単には切れない、不条理な絆の象徴。
「僕の世界から、勝手に住所を消すことは許さない。君がどこへ行こうと、僕がそこを新しい『住所』として登録し直すだけだ」
律の提示した「非論理的な正解」。
それは、正論で世界を裁くことをやめた少年が、ただ一人の少女を繋ぎ止めるために編み出した、世界で最も不器用な「公式」だった。




