第1節:観測データの更新(新しい季節のプロトコル)
桜の花びらが、物理法則に従って予測可能な放物線を描き、アスファルトの上を埋めていく。
進級。
それは学校というシステムにおける大規模なデータベースの更新であり、僕たちの周辺環境が劇的に入れ替わる特異点でもある。
僕は新しいクラスの教室で、いつものように始業前のルーティンをこなしていた。
デスクマットを水平に敷き、ペンケースを机の右端から3センチの位置に配置する。
定規で測るまでもなく、僕の指先はその「正解」を記憶していた。
だが、今の僕のペンケースは、かつてのような「完璧な道具箱」ではない。
そこには、あの日、彼女の涙に濡れた、あの波打ったままのシステム手帳が収まっている。
さらに、端の欠けた消しゴムや、もはや機能を持たないはずのテグスの切れ端が、当然のような顔をして鎮座している。
「……非効率だな」
僕は独りごちて、少しだけ口角を上げた。
かつての僕なら、これらの「ガラクタ」を真っ先に廃棄していただろう。
だが今の僕にとって、これらは僕の世界が「生きている」ことを証明するための、極めて重要な校正用データとなっていた。
不意に、スマートフォンの通知が微かに震えた。
僕はそれを手に取り、画面を確認する。
『律くん、おはよー! こっちは今日、桜が満開だよ。そっちはどう? 写真送るから、あとで画質の論理的評価をお願いね(笑)』
画面には、二時間離れた隣県で、新しい制服を着て、それでも相変わらずの「100デシベルの笑顔」を浮かべる紬の写真が映し出されていた。
彼女は今、親戚の家から新しい学校へ通っている。
家庭の事情がすべて片付いたわけではない。
両親の離婚手続きは続いており、彼女の心にはまだ整理のつかない痛みの澱が残っているはずだ。
だが、彼女は「消えなかった」。
僕が毎週末、特急に揺られて彼女の元へ通い、平日は分刻みのスケジュールの合間を縫ってメッセージを送る。
その不合理で膨大なコストの積み重ねが、彼女をこの世界に繋ぎ止めるための「強靭なテグス」として機能していた。
「……構図が15度傾いている。それに、露出補正も不適切だ」
僕は心の中で毒づきながら、同時に「だが、被写体の幸福指数は予測値を5%上回っている」と付け加えた。
教室の扉が開き、新しい担任が入ってくる。
僕の日常は、これからも1ミリのズレに悩み、効率化の罠に嵌まり、そして彼女というノイズに翻弄され続けるだろう。
だが、その「ズレ」こそが、僕の人生という白紙の頁を、鮮やかな色彩で埋めていくための唯一のペン先なのだと、今の僕は知っている。
「……さて、新しい学期のシミュレーションを始めようか」
僕は手帳を開いた。
そこには、インクが滲み、枠線を大きくはみ出した『瀬戸口 紬』という名前が、誇らしげに輝いていた。




