第2節:上書き(手帳の反逆)
紬は目を見開いたまま、テーブルに散らばった「ノイズ」の山と僕を交互に見ていた。
僕は愛用の黒いシステム手帳を開く。
そこには、1分刻みのスケジュール、効率化された学習計画、そして無機質なタスクリストが、定規で引いたような直線とともに並んでいる。
「律くん、何をして……」
「僕の人生は、この手帳によって制御されていた。無駄を省き、ノイズを排除し、最短距離で正解に辿り着くための地図だ」
僕はペンを握り直し、その「完璧な地図」の上へ、迷いなくペン先を落とした。
――ガリ、と嫌な音がした。
明日の予習計画、来週の模擬試験対策、整然と並んだ数字と文字。
それらをすべて、僕は太い斜線で塗りつぶしていく。
几帳面な僕の美学が、脳内で悲鳴を上げている。
だが、その悲鳴よりも、目の前で震える彼女の吐息の方が、今の僕には遥かに切実な信号だった。
「消しちゃうの? 律くんが大切にしてた、明日の予定を……」
「明日の予定なら、今ここで書き換える。……いや、予定ではないな。これは、僕の『意志』だ」
白紙になった明日のページ、そしてその先の一週間、一ヶ月の頁に、僕は大きく彼女の名前を書き込んだ。
『瀬戸口 紬。整理不能。解決策なし。……よって、そのまま隣に置くこと』
筆跡は乱れ、枠線からはみ出している。
それは僕の人生で初めての、そして最大級の「ミス」であり、同時に初めての「真実」だった。
「……解決しなくていいの? 汚れたままで、いいの?」
紬の声が震え、涙が手帳のページに一滴、落ちた。インクが滲み、さらに「整理不能」な模様を描く。
「そうだ。石鹸で落ちない汚れも、言葉で癒えない痛みも、すべてそのままでいい。……君が自分のことをゴミだと言うのなら、僕は世界で唯一、そのゴミを宝物として収集し続ける変人になればいいだけの話だ」
僕は手帳をパチンと閉じた。
「論理的な解決を捨てた僕に、何ができるかは分からない。だが、紬。君の隣を、僕の『新しい住所』に決めた。君がどこへ行こうと、僕という基準点は、君の1ミリ隣から動かない」
紬は、滲んだ手帳のページを愛おしそうに指でなぞった。
僕たちは、正解のない暗闇の中で、お互いの体温だけを頼りに、壊れた時計の針を止めた。
律のペンケースにある「10年前の和紙」に、もし今熱を加えれば、そこにはきっと、今の僕たちにしか読めない新しい「約束」が浮かび上がっているはずだった。




