第1節:特異点(予測モデルの崩壊)
紬の家に通い始めて、正確に一週間と四時間が経過した。
この間、僕が目撃したものは、僕がこれまで「平穏な社会」の前提として信じてきたあらゆる秩序が、音を立てて崩壊していく過程だった。
玄関の靴は揃えられることなく重なり合い、ダイニングテーブルには未払いの督促状が雪のように積もっている。
かつて彼女が「律くん、おはよー!」と陽気に笑っていたあのエネルギーは、今、この家を支配する「絶望」という名の重力にすべて吸い取られているようだった。
僕は放課後の時間をすべて、この冷え切ったリビングで過ごした。
彼女の隣に座り、ただ無言で手帳を開く。奥の部屋から漏れ聞こえる両親の罵声や、何かを叩きつけるような鈍い衝撃音を聞くたびに、僕の論理回路は過負荷を起こしそうになる。
だが、僕がここで眉をひそめたり、不快感を示したりすれば、彼女の居場所は完全に消失してしまう。そのことだけは、計算しなくても理解できていた。
「……律くん。もう、いいよ」
不意に、紬が掠れた声を出した。
彼女は床に座り込んだまま、僕の制服の裾を見つめていた。
一週間前、白く輝いていたはずの僕のシャツは、この家の澱んだ空気と埃にまみれ、膝には昨日彼女を庇った際についた、消えない泥の染みが残っている。
「君の言うことは、いつだって論理的で、完璧だった。……だったら、今の状況を計算してみてよ。私と一緒にいて、君に何のメリットがあるの? 几帳面な律くんの人生は、1ミリのズレもない美しい直線だったのに。私がそれをめちゃくちゃにして、泥だらけにしてる。……これ、君の嫌いな『ノイズ』そのものでしょ?」
「紬、メリットやデメリットで判断しているわけではない。僕は――」
「私はね、律くんの『綺麗さ』が好きだったんだよ!」
彼女の悲鳴が、家具の運び出された空虚な部屋に木霊した。
「私みたいに、ぐちゃぐちゃで、自分でも整理のつかない人間が隣にいたら、律くんまで壊れちゃう。……お願いだから、私のことはもう『不燃ゴミ』みたいに捨ててよ。適切に処理して、忘れて。それが一番、上条律として『正しい』選択でしょ?」
彼女の瞳は、もはや涙を流すことすら忘れたように乾ききっていた。
彼女は、僕が最も大切にしている「秩序」を守るために、自分という存在を僕の世界から切り離そうとしている。
僕が最も得意とする「整理」というナイフを僕自身に手渡し、それで自分を切り捨てろと懇願しているのだ。
僕は、握りしめたペンの軸が指に食い込むのを感じた。
論理的に考えれば、彼女の提案は正論だ。
これ以上の介入は、僕の学業成績の低下、精神的疲弊、そして将来的な予測モデルの破綻を招く。
彼女を切り捨てることが、僕個人の最適解であることは、数学的に明白だった。
だが。
「……計算は、先ほど完了した」
僕は静かに立ち上がり、愛用のペンケースを手に取った。
そしてそのジッパーを開き、中身をテーブルの上に一気にぶちまけた。
「律くん……?」
「鏡文字のチケット、10年前の和紙、不自然なテグスの切れ端、そして、この欠けた消しゴム。……これらはすべて、僕の潔癖な日常に侵入した『整理不能なノイズ』だ。本来なら、即座に廃棄され、忘却されるべきゴミに過ぎない」
僕はテーブルに散らばった、一見無価値なガラクタの山を、愛おしそうに指先でなぞった。
「だが、シミュレーションの結果、一つの事実が判明した。……これらを取り除き、1ミリの狂いもなく整えられた世界。そこには、完璧な論理の代わりに、一滴の温度もない、ただの『死んだ数式』しか残らなかったんだ。……紬、君という最大最高のノイズがなければ、僕の人生は、何の意味も持たない白紙の頁と同じだ」
僕は泥のついた膝を折り、彼女と同じ高さで目を合わせた。
「整理されないまま、汚れたままの君を、僕は僕の日常の一部として『登録』する。……これは、僕の人生で最も非論理的で、かつ最も正しい、僕だけの解答だ」




