第5節:退却(嵐の中の沈黙)
「……出ていけ! 誰だお前は!」
奥の部屋から、酒の臭いを撒き散らしながら、一人の男がよろめき出てきた。紬の父親だ。その形相は論理的な対話が可能な人間のそれではなく、ただ剥き出しの焦燥と怒りに支配されていた。
「律くん、お願い、行って!」
紬が僕を突き飛ばすようにして立ち上がった。彼女の瞳には、僕への拒絶ではなく、僕をこの「汚濁」に巻き込みたくないという悲痛な懇願が宿っていた。
僕は、自分の右手が反射的に通報ボタンを押そうとするのを、左手で抑え込んだ。
今の僕がここで「正しい処置」を強行すれば、彼女の心は二度と修復できないほどに砕け散る。その確信だけが、僕の脳内で唯一正常に機能している計算結果だった。
「……また来る」
僕はそれだけを絞り出し、彼女の家を後にした。
外は、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。
雨粒が僕の清潔な制服を容赦なく濡らし、体温を奪っていく。普段なら、雨に濡れることの不快感や、風邪を引く確率の変動を即座に計算するところだが、今の僕にはそんな余裕はなかった。
「……僕は、何をしていたんだ」
ガードレールに手をつき、僕は激しく咽せた。
彼女は、この嵐のような日々を隠し続けながら、僕の隣で笑っていた。
僕が「定規が1ミリずれている」と騒いでいた時も、彼女はもっと致命的な、人生そのものの崩壊を背負っていたのだ。
彼女が僕に持ち込んでいた「事件」の数々。
あれは、彼女が僕の世界を汚すためのノイズではなく、僕の世界という名の「シェルター」に身を寄せるための、必死の口実だった。
彼女は、僕の潔癖な世界を愛していた。
そして、その美しさを「家庭の悩み」というノイズで汚したくないと願うあまり、僕に嘘をつき続けていた。彼女の天真爛漫さは、僕の「秩序」を守るための、彼女なりの切ない騎士道だったのだ。
「……整理できない。こんなもの、整理できるはずがない」
僕は雨に打たれながら、手帳を強く握りしめた。
ページは雨に濡れて波打ち、整然と並んでいた文字が滲んでいく。
几帳面な僕の人生において、これほどまでに醜く、泥臭く、そして「正解」の見えない夜はなかった。
だが、僕の胸の奥で、今まで感じたことのない種類の熱い脈動が始まっていた。
それは、論理回路が焼き切れた後に残る、剥き出しの「人間」の鼓動だった。




