第4節:限界(解決策のない問い)
「……上条くん、君の言うことはいつも正しいよ」
紬が僕の手を振り払い、掠れた声で笑った。
その瞳には、諦念という名の深い影が落ちている。
「でもね、ここは学校の図書室じゃない。本を元の場所に戻せば済む話じゃないの。……あの人たちは、私の親なの。壊れているけど、私の居場所はここしかないの。君の綺麗な数式に、私の人生を代入しないで!」
僕は唇を噛み、手帳を取り出した。
脳内では、すでに「最適解」の検索が始まっていた。
「……論理的に整理しよう。まず、家庭内暴力および育児放棄の疑いで児童相談所に通報する。証拠として今の音声データと室内の惨状を記録した。次に、君の安全を確保するために一時保護の手続きを――」
「やめて!」
紬の叫びが、狭いダイニングに響き渡った。
「相談所? 警察? そんなことしたら、この家は本当になくなっちゃう。お父さんもお母さんも、もっと壊れちゃう。……私が求めてるのは、そんな『正しい手続き』じゃないんだよ!」
「……しかし、このままでは君の生存率、あるいは精神的健康の維持確率は低下する一方だ。僕の提示する解決策は、統計学的に最も安全な――」
「解決なんて、できないんだよ……っ!」
紬が僕の胸元を掴み、泣き崩れた。
僕が信じてきた「正論」という名の盾が、彼女の悲痛な熱量にさらされて、ぐにゃりと歪んでいく。
僕は気づいてしまった。
僕が今提示しているのは、彼女を救うための言葉ではない。
僕自身が、この「整理のつかない不快な状況」から一刻も早く脱し、世界を元の秩序ある形に戻したいがための、エゴイスティックな処方箋に過ぎないということに。
奥の部屋で、ドスンという重い衝撃音が響いた。
暴力の気配がすぐそこまで迫っている。
僕の手帳には、この「理不尽な痛み」に対する回答は一文字も書かれていなかった。
「……僕は……」
僕は、自分の指先が絶望的に冷たくなっているのを感じた。
数学の問題なら、どれほど複雑でも最後には「$x=$」という終着点がある。
だが、目の前で震える一人の少女の心には、等号で結べる答えなどどこにも存在しなかった。
律の脳内を支配していた完璧な演算が、初めて致命的なエラーを吐き出し、停止した。




