第3節:侵入(ノイズの正体)
玄関の扉は鍵がかかっていなかった。
不用心というよりは、もはや「境界を維持する機能」すら失われているようだった。
一歩踏み込むと、肺にまとわりつくような重苦しい空気が僕を包んだ。
廊下には脱ぎ捨てられた靴、宛先不明の郵便物、そして何かの破片が散乱している。
「……紬」
僕は声を絞り出した。
リビングの奥、薄暗いダイニングの隅に、彼女はいた。
いつも整えられていた制服はしわくちゃで、床に座り込み、膝を抱えて小刻みに震えている。
その周りには、粉々に砕け散ったお気に入りのマグカップ――僕が「熱力学的に効率が良い」と評したあのカップが、無惨な残骸となって転がっていた。
「……律、くん? なんで、ここに……」
彼女が顔を上げた。
その頬には、隠しきれなかった赤みが走っている。
奥の部屋からは、荒々しい足音と、「金はどこだ」と叫ぶ男の濁った声、そしてそれに絶叫で返す女性の声が聞こえてくる。
「……見ないで。お願い、見ないで、律くん」
紬は必死に顔を隠した。
「ここはね、律くんの世界とは違うの。正解なんてないの。さっきまで笑ってたかと思えば、次の瞬間には全部壊れるの。……ここは、整理なんてできないゴミ溜めなんだよ!」
彼女の叫びは、鋭いガラスの破片となって僕の胸に刺さった。
彼女がなぜ、僕の隣でいつも「正解のある問題」を楽しみ、完璧なまでに几帳面な僕の日常を守ろうとしていたのか。
彼女にとって、僕の隣は「ノイズが除去された唯一のシェルター」だったのだ。
自分の家という名の混沌を、僕の美しい世界に一滴も持ち込ませないよう、彼女は毎日、血を流しながら笑っていた。
「……紬。データの欠損を謝罪する。僕は、君がこれほどの負荷に耐えていたことを計算に入れていなかった」
「……計算なんて、できないよ。だって、私自身がもう、壊れたノイズなんだもん……」
奥の部屋で、再び何かが割れる音がした。
怒号は一段と高まり、日常を破壊する暴力的なエネルギーが、この家を飲み込もうとしている。
僕は、散乱する破片の間に足を踏み入れた。
几帳面な僕が最も嫌う、不衛生で、危険で、不合理な空間。
だが、今の僕には、この惨状が「整理すべき対象」には見えなかった。
「……いいか、紬。よく聞け」
僕は彼女の前に膝をついた。
彼女が震える手を伸ばし、僕の清潔な制服を汚さないように遠ざけようとする。
僕はその手を、逃がさないように強く掴んだ。
「君はノイズじゃない。……僕の日常を構成する、最も重要な『変数』だ。君がいなければ、僕の数式は答えを導き出せない」
僕は彼女の隣に座り、砕け散ったマグカップの破片の一つを拾い上げた。




