第2節:過去の断片(嵐の夜の約束)
荒れ果てた庭先で、僕は動けずにいた。
家の中から漏れ聞こえる罵声と、ガラスが砕ける乾いた音。
その一つ一つが、僕の脳内で構築された「瀬戸口紬」という完璧なモデルを、容赦なく破壊していく。
――ふと、記憶の奥底に眠っていた「未整理のデータ」が、急速に再構築され始めた。
それは、今のような嵐の気配が漂う、小学校の放課後のことだった。
僕は当時から、誰もいなくなった図書室で、本棚の背表紙をミリ単位で整える作業を日課にしていた。
僕にとって、世界は「正しく並んでいる」ことだけが唯一の安らぎだったからだ。
「……ねえ、君。それ、楽しいの?」
突然背後からかけられた声に、僕は手を止めた。
そこには、今の彼女とは似ても似つかない、色のない瞳をした少女が立っていた。
彼女の服の袖口は解れ、髪もひどく乱れていた。
「……義務だ。本には住所がある。住所が狂えば、誰も会いに行けなくなる」
「ふーん。じゃあ、住所をぐちゃぐちゃにしてあげようか?」
少女は挑発するように笑うと、僕が整えたばかりの本を次々と引き抜き、床に放り出した。
歴史、科学、物語。それらが入り混じり、図書室の秩序が崩壊していく。
今の僕なら、それが彼女なりの「助けて」という悲鳴だったと理解できただろう。
だが、当時の僕は、ただ無言で彼女が落とした本を拾い、元の位置へと戻し続けた。
彼女が崩し、僕が直す。
一時間以上も繰り返された無意味な運動の果てに、彼女は床に座り込み、ポツリと漏らした。
「……どうして怒らないの? 私、最低なことしてるのに」
「怒る理由がない。君がどれだけ乱そうと、この本の『正しい居場所』は変わらない。何度でも、僕はそこに戻すだけだ」
少女はその言葉を聞いた瞬間、初めてその瞳に光を宿した。
彼女の両親は、日によって言うことが違った。
ある時は溺愛し、ある時は無視し、家の中の「正解」は常に気まぐれに変動していた。
そんな彼女にとって、僕の「何度でも同じ場所に戻す」という頑固なまでの不変性は、世界で唯一の、裏切らない「基準点」に見えたのかもしれない。
『……律くんの几帳面さは、究極の安心感なんだよ』
いつか彼女が笑って言った言葉が、今の僕の耳に蘇る。
彼女は、家という名の「予測不能な地獄」から逃げ出すために、僕の作る「美しい秩序」の一部になりたいと願っていたのだ。
僕は再び、目の前の荒れた家の扉を見つめた。
今、あの家の中で紬は、自分が壊した本を拾い上げる「基準点」を失い、泥濘の中に沈んでいる。
「……計算は、もう必要ない」
僕は震える指で、歪んだ門扉のボルトに手をかけた。
今の僕がなすべきことは、論理的な解決策の提示ではない。
彼女がどんなに自分自身を壊し、乱そうとしても、僕だけは「彼女が帰るべき場所」として、そこに立ち続けること。
僕は大きく息を吸い込み、混沌の渦巻く玄関へと、一歩を踏み出した。




