第4節:動機の不在
理科準備室の空気は、ビーカーの中で跳ねるアルコールランプの炎のように静かだった。
振り返った久保の瞳には、犯行を暴かれた者の動揺はなく、ただ深い疲労と、何かに没頭する者の静謐さだけがあった。
「……祝辞の消失? 何の話だい、上条くん」
久保はフラスコを振りながら、力なく笑った。
彼の机の上には、化学薬品の代わりに、色とりどりの小さな「折り紙」の山が築かれていた。
「君が式典を憎み、祝辞を白紙にした……。違うのか?」
僕は久保の机にある薬品棚を走査した。
フェノールフタレイン溶液の瓶はあるが、埃を被っている。
「僕が式を憎んでいる? 逆だよ。僕は、僕たちみたいに教室にいられなかった連中のために、明日、屋上で『もう一つの卒業式』をやる準備をしていたんだ。この折り紙は、その時に降らせる紙吹雪さ。薬品を使って文字を消すなんて、そんな無意味なことに時間を使う余裕はないよ」
久保が広げたノートには、明日屋上で集まる予定の数人の生徒の名前と、彼らが三年間で唯一「好きだった」という理科の実験への感謝の言葉が綴られていた。
「……アリバイ、というか。彼はずっとここにいたみたいだよ、律くん。ほら、この折り紙の数……。数千枚はあるよ。一時間や二時間で折れる量じゃない」
紬が感嘆の声を上げ、千切れた紙の一片を拾い上げた。
僕は言葉を失った。
久保にとって、卒業式は「停止させるべきシステム」ではなく、自分たちのやり方で「肯定すべき区切り」だったのだ。
僕が組み立てた「反抗のロジック」は、彼の善意という名の変数の前で、音を立てて崩壊した。
「……まただ。僕は、対象の行動原理を『負の感情』にのみ求めてしまった」
理科準備室を出た廊下で、僕は拳を握りしめた。
久保は犯人ではない。
ならば、あの中庭の沈丁花の香りは? 十年前の和紙は?
僕が「合理的」だと信じていた答えが、春の陽炎のように揺らぎ始める。
「律くん、落ち込まないで。久保先輩の折り紙、すごく綺麗だったじゃない。……ねえ、もしかして、祝辞を消した人は、久保先輩とは全然違う『もっと優しい理由』でそうしたのかもよ?」
紬の言葉が、耳の奥で微かに反響した。
優しい理由。
そんな非科学的な動機が、厳重に管理された金庫の中の言葉を奪うなどということが、果たしてあり得るのだろうか。
僕は再び、職員室から持ち出した「真っ白な祝辞」を広げた。
夕暮れの光が差し込む廊下で、その白紙は、誰かの切実な「沈黙」を体現しているかのように、どこまでも冷たく、無機質に輝いていた。




