第3節:内部犯の合理性
僕は職員室の隅で、手帳に現在の状況を構造化した図を書き込んだ。
中心には「祝辞の消失」。
そこから伸びる線は「化学的知識」「入室許可」「動機」へと繋がっていく。
「瀬戸口、犯人のプロファイルは既に80%完了している。この事件は、場当たり的な悪戯ではない。極めて計画的で、かつ『政治的』なメッセージを孕んだ抗議行動だ」
「政治的? 律くん、それって……学校への反抗ってこと?」
「そうだ。まず、このpH指示薬を用いたトリックを実行するには、理科室の備品に自由にアクセスできる立場の人間である必要がある。さらに、校長室への入室が許される『無害な顔』をした人物だ。……条件に合致するのは、不登校気味で出席日数が足りず、卒業が危ぶまれている三年生の『久保』。彼は化学部員でもあり、以前、学校の画一的な行事に対して強い不満を漏らしていたというデータがある」
「久保先輩……。確かに、あまり学校で見かけないけど、理科室にこもってるって聞いたことあるかも」
僕は頷き、論理を補強する。
「久保にとって、自分が参加できない卒業式は、存在しないも同然の儀式だ。祝辞を白紙にすることで、彼は『言葉の無力化』を狙った。校長先生がどんなに立派な言葉を並べようと、それは化学反応一つで消える程度の虚飾に過ぎないと証明したかったんだろう。沈丁花の香りで酸性の臭いを隠したのは、その場での発覚を遅らせるための周到な計算だ」
「でも、どうしてそんな手の込んだことを……」
「それが彼の『合理性』だからだ。ただ盗むだけでは、予備の原稿を読まれて終わる。だが、直前まで文字が見えていて、いざ壇上で開いた瞬間に白紙になっていれば、式典の進行は致命的に停止する。……彼の狙いは、卒業式というシステムの『一時停止』だ」
僕は確信を持って、久保が現在いると思われる旧校舎の理科準備室へと向かった。
理科準備室は、化学薬品の匂いと静寂が支配する、学校の中で最も「非感傷的」な場所の一つだ。
「久保さん。君の計算は完璧だったが、一点だけ見落としがある。……僕という変数を計算に入れていなかったことだ」
僕は理科準備室の重い扉を開いた。
そこには、フラスコを眺める一人の少年の背中があった。
律の頭脳は、彼を「犯人」として確定させるための最終的なチェックリストを、一つずつ埋めていった。




