第2節:密室の演壇
「全員、その場から一歩も動かないでください。特に、その和紙に触れてはならない」
僕の声に、職員室の喧騒が凍りついたように静まった。
僕はカバンから予備の白手袋を取り出し、慎重な手つきで「白紙の祝辞」の端を持ち上げた。
「律くん、何か分かったの?」
紬が背後から、期待と不安の入り混じった声を出す。
「……確認する。校長先生、この和紙は学校の備品ですか?」
「いや、それは十年前からこの校長室の棚に大切に保管されていた、特製の和紙だ。卒業式の祝辞にはこれを使うのが、この学校の密かな伝統でね」
十年前。保管されていた紙。
僕は和紙を光に透かし、繊維の密度を観察した。
次に、僕は金庫の内部を検分した。
重厚な鋼鉄の箱の隅には、僅かながら粉末状のカスが落ちている。
僕はそれをピンセットで拾い上げ、手帳の上で転がした。
「教頭先生。今朝、金庫を開けてから祝辞を机に置くまでの間に、この部屋を訪れた人物を、秒単位でリストアップしてください」
「え、ええと……清掃の職員が数分。それから、卒業生代表として答辞の練習に来た生徒が一人。それと、花瓶の水を替えに来た園芸部員だ。だが、全員一分と滞在していないし、私か校長が必ず立ち会っていた」
「一分あれば、物理的な接触には十分な時間だ。……だが、不自然だな」
僕は和紙の表面に、再び定規を当てた。
「文字が『消えた』のであれば、紙の繊維に墨が浸透した痕跡が、ミクロン単位で残っているはずだ。しかし、この紙にはそれがない。……まるで、最初から何も書かれていなかったかのように清潔だ」
「じゃあ、校長先生の勘違いってこと?」
紬が首を傾げるが、僕は首を振った。
「校長先生の網膜には、今朝の時点で確かに文字が投影されていた。ならば、考えられる可能性は二つ。一つは、光の屈折や偏光を利用して文字を不可視化したか。もう一つは……」
僕は机の端に置かれた、一輪挿しの沈丁花を見つめた。
花瓶の水の近くに、僅かな液滴が飛んでいる。
僕はそれを指先で拭い、匂いを嗅いだ。
「……フェノールフタレイン溶液、あるいはそれに類するpH指示薬か」
「えっ、理科の実験で使うやつ?」
紬が驚いた声を上げる。
「ああ。特定の条件下で色が消える、あるいは現れる性質を持つ液体だ。……犯人は、墨そのものを盗んだのではない。校長先生が書いた『祝辞』を、ある化学反応を用いて、一時的に僕たちの視界から抹消したんだ」
僕は時計を見た。式典まで残り十九時間。
この「空白」を埋めるには、犯人がなぜ『消える文字』を必要としたのか、その論理的な動機を特定しなければならない。




