第1節:消えた祝辞
三月の風は、冬の鋭さを残しながらも、どこか湿り気を帯びていた。
校庭の隅にある桜の蕾は、計算された予定調和のように膨らみ始め、校内には卒業式を控えた独特の、浮足立ったような「非論理的な熱」が充満している。
「律くん、見て! 卒業生へのメッセージカード、掲示板に貼り切れないくらい届いてるよ」
紬が春色に近い薄手のカーディガンを揺らしながら、多目的ホールの掲示板を指差した。
僕はそれを一瞥し、正確に三分遅れている廊下の時計を睨む。
「……感傷のインフレだ。卒業という一時的な状態の変化に対し、これほどの文字数を消費するのはエネルギーの無駄遣いと言わざるを得ない」
「もう、相変わらず可愛くないなあ。でも、その『無駄』が春のいいところなんだよ?」
紬が苦笑したその時だった。
放送室から、焦燥を含んだ教頭先生の声が校内に響き渡った。
『……至急、全職員は職員室に集まってください。繰り返します――』
数分後、騒がしくなった職員室の入り口で、僕たちは異様な光景を目にすることになった。
金庫が開け放たれたままの校長室の机の上。
そこには、明日行われる卒業式で読み上げられるはずだった、校長先生直筆の「祝辞」が置かれていた。
だが、その長い和紙には、墨跡一つ残されていなかった。
「……白紙? 嘘でしょ、さっきまで校長先生が最終確認をして、ここに置いたばかりなのに」
教頭先生が青い顔をして震えている。
僕の目は、その「白紙」の表面を鋭く走査した。
金庫にこじ開けられた形跡はない。
鍵は二重管理されており、校長と教頭がそれぞれの場所から取り出さない限り開かない仕組みだ。
「校長先生。この祝辞は、いつ、どこの墨で書かれたものですか」
僕の問いに、校長先生は困惑したように眼鏡を直した。
「……一週間前だ。伝統に従い、校長室に代々伝わる墨を使い、私が心を込めて書いた。今朝、金庫から出した時点では、確かに力強い文字が並んでいたんだ。それが……昼休みのわずか十五分の間に、忽然と消えてしまった」
「十五分。密室状態。そして、文字だけの消失……」
僕は机に歩み寄り、和紙の表面に鼻を近づけた。
微かに漂う、春の沈丁花の香りと――それを打ち消すような、僅かな「酸性」の臭い。
「瀬戸口。予定を変更する。明日の卒業式のタイムラインを守るために、この『空白』の正体を解明する。……これは物理的な盗難ではない。論理そのものが抹消された事件だ」
僕は手帳を取り出し、真っ白な和紙の上にあるはずだった「見えない言葉」の残像を追った。
卒業式まで、残り二十時間。
律の脳内では、春のノイズを排除するための新しい演算が、猛烈な勢いで開始されていた。




