第5節:桜の蕾と隠し場所
旧校舎の長い廊下を歩きながら、僕は自分の手を見つめた。
この手は、論理的な証拠を掴むためにあるはずなのに、今はただ、実体のない空気を握りしめているような感覚だった。
「……計算不能だ。久保に動機がないのであれば、あのpH指示薬の反応は、誰が何のために引き起こしたというんだ」
「律くん、ちょっと頭を冷やそう? ほら、中庭の桜。一輪だけ咲き始めてるよ」
紬が窓の外、夕闇に沈みかけた中庭を指差した。
冷たい空気の中に、一点だけ淡いピンク色が灯っている。
その下に、例の沈丁花が香っていた。
「ねえ、律くん。さっき校長先生が言ってたじゃない。『十年前から保管されていた和紙』って。私、その言葉で思い出したことがあるの。この学校に伝わる、ちょっと不思議な噂話」
「……また噂か。だが、今の僕にはノイズを選別する余裕さえない。聞こう」
「ふふ、素直でよろしい。……あのね、十年前。この学校には、今の校長先生がまだ若手の熱血教師だった頃に、すごく仲の良かった『文芸部員』たちがいたんだって。でも、その子たちの代の卒業式は、今みたいに盛大じゃなかった。ある事情で、校長先生は彼らに『本当の祝辞』を贈ることができなかったらしいの」
「本当の祝辞を贈れなかった?」
「うん。だから当時の生徒たちは、校長先生と一つの約束をしたんだって。『いつか、本当に自由な言葉を贈れる時が来たら、その言葉は私たちだけのもの。他の誰にも見えないように隠してほしい』って」
僕は足を止めた。
脳内の「十年前の和紙」というピースが、不気味な震えを伴って回転し始める。
「瀬戸口、その約束の詳細は?」
「詳しくは誰も知らないよ。でも、その時の生徒たちが、卒業記念に校長室に『特別な和紙』を寄贈したっていうのは有名な話。……律くん、もしあの祝辞が『盗まれた』んじゃなくて、十年前の約束が今になって『発動』したんだとしたら?」
「発動……。バカげている。物理現象にタイムラグを設けるには、それ相応の時限式のトリガーが必要だ。和紙の酸化、インクの経年劣化、あるいは……」
僕はカバンから、第1節で回収した「白紙の祝辞」を取り出し、夕陽にかざした。
和紙の繊維が、微かに、本当に微かに「網目状」に配列されている。
それは現代の大量生産品にはない、手漉き和紙特有の複雑な構造をしていた。
「……待て。十年前の和紙。沈丁花の香り。そして今、校内に流れている『暖房の熱』。……繋がったぞ。犯人は、人間ではないかもしれない」
「え? 人間じゃないって、幽霊!?」
「いや、もっと残酷で、もっと正確な『化学の時計』だ。……紬、もう一度校長室へ行くぞ。今度は犯人を捕まえるためじゃない。十年前の『幽霊』が残した、本当のメッセージを読み解くために」
律の瞳に、論理の光が戻った。
それは春の嵐を予感させるような、鋭く、それでいてどこか切実な輝きだった。




