第9節:溶けゆく真実
美術部室を後にした僕たちの耳に、屋上の排水溝を伝う水の音が聞こえ始めた。
予報通り、雪は雨へと変わり、中庭を覆っていた白銀の膜を容赦なく剥がし取っていく。
「……溶けちゃうね、律くん。せっかく深町さんが作ったガイドラインも、あの雪だるまも」
渡り廊下の窓から外を眺めながら、紬が少し寂しそうに呟いた。
「雪の融点は0°Cだ。雨によって熱伝導率が上がれば、一時間以内にあの『偽装された足跡』は完全に消失する。エッジも、深さも、バケツの円形も。……すべてが平均化され、再び誰もいない中庭に戻るだけだ」
僕は窓から中庭を見下ろした。
雪が溶けるにつれ、雪だるまの頭に塗られていた赤い岩絵具が、雨水に溶け出してピンク色の筋を描いている。
それはまるで、止まっていた時間がようやく泣き出したかのように見えた。
僕はふと、掃除用具入れの方へ視線を向けた。
「瀬戸口。一分だけ、時間を貸せ」
「えっ、いいけど……どこ行くの?」
僕は中庭側の掃除用具入れへと向かい、そこから予備の雑巾と、新しいバケツを一つ取り出した。
そして、雨に濡れるのも構わず、中庭の端にある「掲示板」の下へと足早に向かった。
そこには、深町さんが筆を拾い上げた際に散らばった土と、バケツを回収した時にできた不自然な窪みが僅かに残っていた。
僕は誰にも気づかれない程度の速さで、その窪みを周囲の濡れた土で埋め、不自然な「エッジ」を均した。
「……律くん? 何してるの?」
「後処理だ。深町さんの『ゼロの保存法則』を完璧にするために、物理的なノイズを除去した。これで、あの中庭に誰かがいたという証拠は、僕と君の記憶以外からは完全に消去された」
僕は濡れた手を雑巾で拭き、元の場所へ戻った。
雨脚が強まる。
数分後には、僕が均した土も、深町さんが並べたバケツの跡も、すべてが泥濘の中に溶けて同化した。
物理学において、エントロピーは増大し、秩序は常に崩壊へと向かう。
だが、この雨がすべてを流し去った後でも、深町さんの手の中にある一本の筆には、確かに「守られた秩序」の記憶が刻まれているはずだ。
「……律くんって、たまにすごくロマンチストだよね」
「心外だ。僕はただ、計算の帳尻を合わせただけだ」
僕は濡れたレインブーツの底をトントンと叩き、泥を落とした。
手帳に記された「成瀬の放物線」は、もう二度と使うことはないだろう。
だが、その隣に新しく書き加えられた「深町の境界線」という文字は、僕の冷徹な論理のなかで、不思議な熱を持ち続けていた。




