第8節:孤独の証明
美術部室のストーブが、パチリと音を立てて爆ぜた。
深町さんの手の中にある、泥のついた一本の筆。
それは僕から見れば、数千円で買い替え可能な、消耗品の一つに過ぎない。
しかし、彼女がそれを取り戻すために費やした計算と労力は、その金銭的価値を遥かに凌駕していた。
「……非効率だ、深町さん」
僕はあえて、突き放すような声を出した。
「筆一本のために、夜中にバケツを並べ、屋上からテグスを操り、足跡を偽装する。さらには僕や瀬戸口のようなノイズを招き寄せるリスクまで冒した。……そんな手間をかけるくらいなら、今朝、長靴を履いて普通に探しに行けば済んだはずだ」
「律くん、それは違うよ」
隣で紬が、僕の袖を軽く引いた。
「深町さんは、筆を探したかっただけじゃないんだよね? 筆が埋まっている場所を、誰にも、自分でも踏み荒らしたくなかったんだよ。……その場所を『綺麗なまま』にしておきたかったんだと思う」
深町さんは小さく微笑み、筆を白い布で丁寧に拭い始めた。
「……そう。あの中庭は、岸田先輩が最後の日まで過ごした場所。そこが雪で白く染まったとき、私はそれを汚す権利なんて誰にもないって思ったの。私自身の足跡でさえ、そこには残したくなかった。……だから、触れずに見つける方法を考えた」
僕は沈黙した。
かつて第2章で、岸田先輩が「鏡の中の世界」に時間を閉じ込めようとしたとき、僕はそれを『無価値な損失』だと切り捨てた。
だが、目の前の深町さんは、その岸田先輩から受け取った「想い」を、雪という一晩で消えてしまう儚い媒体を使って、自分なりのやり方で守り抜いた。
「……記録者としての矜持、というわけか」
僕はペンケースから、あの欠けた消しゴムを取り出した。
完璧ではない。角も取れている。
しかし、僕がこれを捨てずに持っている理由は、機能性だけではないことを、今の僕は認めざるを得なかった。
「深町さん。君の行動は、物理学的には『過剰なエネルギーの浪費』だ。……だが、その『無駄な計算』のおかげで、僕は今日、一つだけ新しい数式を学ぶことができた」
「新しい数式?」
「『ゼロの保存法則』だ。……そこに足跡を残さないという選択が、時として、何百歩の歩行よりも雄弁に真実を語ることがある。……あなたの犯したエラーは、僕の論理を心地よく混乱させてくれた」
僕は深町さんに背を向け、部室の出口へと歩き出した。
彼女の孤独な証明は、雪が溶ければ誰にも知られることなく消えていく。
だが、僕の脳内のハードディスクには、その「片道だけの足跡」が、最も美しい不完全な図形として記録された。
「律くん、待ってよ! ……深町さん、またね! その筆で、素敵な絵描いてね!」
紬の声に追いかけられながら、僕は廊下へ出た。
外では、雪が少しずつ雨に変わり始めていた。




