第7節:境界線の主
美術部の部室は、旧校舎の北側、最も日当たりの悪い場所にある。
扉を開けると、油絵具の独特な匂いと、ストーブの熱気が僕たちの頬を撫でた。
室内では数人の部員が冬休み前の制作に没頭していたが、僕は迷わず、奥のキャンバスに向かっている一人の背中に声をかけた。
「深町さん。……少し、中庭の話をしてもいいかな」
二年生の深町が、筆を止めてゆっくりと振り返った。
彼女の手元には、まだ下塗りの段階の、深い青色の風景画があった。
「中庭……。雪だるまのこと? 律くん、あんなところで何かの調査?」
「調査は既に完了した。……君が昨夜、掃除用具入れからバケツを持ち出し、雪が積もる前の中庭に設置したことも。そして今朝、屋上からテグスを使ってそれを回収し、『片道の足跡』を偽装したこともね」
周囲の部員たちの手が止まる。
深町は動じず、パレットの上の絵具を見つめていた。
「どうして、私がそんな面倒なことをしたと思うの?」
「掲示板の裏に落ちていた、極細の筆の毛。そして雪だるまの頭に残された赤い塗料……あれは、君が今使っている『高級な岩絵具の朱』と同じ成分だ。……動機は、佐伯さんが言っていた『探し物』だろう。君は昨日の夕方、掲示板の裏で、制作に欠かせない大切な筆を落とした」
僕は一歩踏み出し、彼女の筆洗の隣に置かれた「一本だけ欠けた筆立て」を指差した。
「だが、昨夜から雪が降り始めた。今朝、君が筆を探しに中庭へ入れば、君の足跡が雪を乱し、埋まっているはずの筆の位置を特定できなくなる。……だから君は、中庭へ一歩も入らずに、掲示板までの『目印』を作る必要があった」
「目印……?」
紬が横から不思議そうに尋ねる。
「そうだ。昨夜、雪が降る前に、掲示板までの最短ルートにバケツを置いておけば、そこだけは雪が積もらない。今朝、屋上からそれを引き上げれば、雪の上の『穴』がガイドラインになる。……雪だるまは、バケツを回収する際に周囲の雪を掃き集めて作った、単なる重しだ。頭に赤い絵具を塗ったのは、屋上からでも自分の作ったガイドがはっきり見えるようにするためのマーキングだよ」
深町は小さくため息をつき、筆を置いた。
「……さすがだね、律くん。一ミリの狂いも許さない君なら、あの足跡の『不自然な精密さ』に気づくと思ってた。……そう。私はどうしても、あの筆を見つけたかったの。あれは、去年の文化祭で引退した岸田先輩からもらった、大切な筆だったから」
深町がポケットから取り出したのは、泥に汚れながらも、確かに彼女の手に戻ってきた一本の細い筆だった。
「雪を汚したくなかった。誰にも踏ませたくなかった。……あの筆が眠っている場所だけは、誰にも邪魔されない『境界線』のままでいてほしかったの」
彼女の言葉は、論理的な正解を超えて、しんしんと降り積もる雪のような静かな重みを持っていた。




