第5節:温かいココアと噂話
中庭に面した渡り廊下のベンチで、僕は凍りついたように動けずにいた。
膝の上に置いた手帳には、成瀬の跳躍ルートを描いた放物線が、今や無意味な落書きとして残っている。
「……論理の死だ。僕は、存在しないポールを前提に数式を組んだ。これは科学者として最も恥ずべき、予断によるエラーだ」
「律くん、反省しすぎだよ。ほら、これ飲んで。手が氷みたいに冷たいよ」
紬が僕の手に、自販機で買ったばかりの温かいココアを押し付けてきた。
アルミ缶から伝わる熱が、感覚の麻痺した指先にジンと響く。
僕は無言でプルタブを引き、一口含んだ。
過剰な糖分が脳を叩くが、混乱したキャッシュを整理するには至らない。
「ねえ、律くん。成瀬くんの身体能力とかポールの長さとか、そういう難しいことじゃなくてさ……。この中庭の『ジンクス』の話、聞いたことない?」
「ジンクス? 統計的根拠のないオカルトの類か。興味はない」
「そんなこと言わずに。……この学校の古い卒業生の間で言われてるんだって。『冬の朝、中庭に赤い頭の雪だるまが現れたら、それは探し物が見つかる予兆だ』って。でもね、その雪だるまには絶対に近づいちゃいけないの。近づいたら、足跡を盗まれちゃうから」
僕はココアを飲む手を止めた。
「足跡を、盗まれる?」
「そう。だから、帰り道の足跡がなくなるんだって。……これ、去年のダンス同好会の先輩たちが話してるのを聞いたの。その『探し物』っていうのは、昔、中庭で落とされたまま見つからなかった、誰かの大切な思い出のことらしいんだけど」
普段の僕なら「非論理的だ」と一蹴するところだ。
だが、今の僕には「帰り道のない足跡」を説明する手段が他にない。
「……待て。その『赤い頭の雪だるま』というフレーズ。さっき、佐伯さんが言っていた『掲示板の裏で探し物をしていた人物』と、何かつながりがあるのではないか?」
「あ、やっぱり律くんもそう思う? 佐伯さんが見た人、すっごく必死だったみたいだよ。でも、掲示板の裏って、ちょうど校舎の影になってて、雪が積もりにくい場所なんだよね」
僕はハッとして、中庭を振り返った。
校舎の影。雪の積もり方のムラ。
そして、紬が言った「足跡を盗まれる」という、一見非合理な言葉。
「……瀬戸口。君は今、極めて重要なヒントを口にしたかもしれない」
「え? 私、何か言った?」
「『足跡を盗む』。……そうだ、物理的に消すことが不可能なのなら、最初から『存在させない』か、あるいは『別の形に変質させる』しかない。……雪の性質、そしてバケツの用途」
僕はココアを一気に飲み干し、空き缶をゴミ箱へ正確に放り込んだ。
脳内の砂嵐が晴れていく。
新しい変数が、カチリと音を立てて数式の中に収まった。
「推理を再構築する。……犯人は、空を飛んだのでも、棒高跳びをしたのでもない。……もっと泥臭く、そして切実な方法で、その場所に『片道』の証拠を残したんだ」




