第4節:物理の限界
グラウンドの隅、霜柱を踏みしめる陸上部の部員のなかに、ターゲットの成瀬を見つけるのは容易だった。彼は一年生ながら、周囲とは一線を画すしなやかな体躯で、黙々とストレッチをこなしていた。
「成瀬くん、だよね? ちょっといいかな」
紬が控えめに声をかけると、成瀬は不思議そうに顔を上げた。
「……何? 僕に何か用?」
僕は歩み寄り、手帳を開いて彼に突きつけた。
「単刀直入に言う。今朝、中庭の雪だるまを作ったのは君だな。掃除用具入れからバケツを盗み、それを足場にして雪面に足跡を残した。そして雪だるまに到達した後、競技用のポールを使って二階テラスへ跳んだ。……違うか?」
成瀬は一瞬、きょとんとした顔をした後、腹を抱えて笑い出した。
「ははは! 棒高跳びでテラスへ? 君、本気で言ってるの? たしかに僕は選手だけど、ポールは部室の鍵がかかった専用ラックに保管されてる。顧問の先生が来るまで取り出せないよ。それに――」
彼は自分の右足を持ち上げて見せた。そこには痛々しいギプスが巻かれていた。
「昨日の練習で足首を捻っちゃってね。今朝はマネージャーの仕事を手伝いに来ただけだよ。跳ぶどころか、まともに走ることもできない。……残念だったね、探偵さん」
脳内の数式が、ノイズ混じりの砂嵐に変わった。
「……物理的な、不可能?」
「律くん、成瀬くんのアリバイは完璧みたいだよ。今朝は早くから、他の部員たちと一緒にここで道具の準備をしてたって、さっきキャプテンも言ってたし」
僕は呆然と立ち尽くした。
成瀬の負傷。ポールの厳重な管理。
僕が構築した「合理的で美しい放物線」は、存在しないポールの幻影に過ぎなかったのだ。
「……失礼した。計算に、致命的な欠陥があったようだ」
僕は逃げるようにグラウンドを後にした。
背後で、陸上部員たちの「なんだあいつ?」という囁き声が聞こえる。耳の奥が熱い。
これほどまでに完璧な論理の敗北を、僕はかつて経験したことがあっただろうか。
中庭に戻ると、雪だるまは依然としてそこに居座っていた。
エッジの鋭い足跡。
赤いインク。
消えたバケツ。
証拠は目の前にあるのに、それらを繋ぐ「線」がどこにも見当たらない。
「律くん、顔色が真っ白だよ。雪より白いよ。……一回、お休みしよう? ほら、中庭のベンチの雪、私が払っておいたから」
紬の言葉さえ、今の僕にはエラーログを告げる警告音のように聞こえた。
僕は自分のペンケースを握りしめた。そこには、第2章で手に入れた「鏡文字のチケット」と「欠けた消しゴム」が入っている。
「……僕は、一体何を見落としているんだ」
冬の冷たい空気が、肺の奥まで凍てつかせる。
この「不可能図形」を解く鍵は、僕が忌み嫌う「非合理な何か」のなかに隠されているのだろうか。




