第2節:1mmの侵略者
一限目の数学の授業は、僕にとって本来、もっとも心安らぐ時間であるはずだった。
黒板に整然と並ぶ数式には、感情の入り込む余地がない。
右辺と左辺が等号(=)で結ばれるその瞬間、世界は完全に調和し、僕の精神は凪のような静寂に包まれる。
しかし、今日に限っては、目の前の二次関数が意味を成さない記号の羅列にしか見えなかった。
僕の視線は、ノートの左上、水平から十五度の角度で置かれた「異物」――角を失った消しゴムに釘付けになっていた。
改めて、論理的に観察する。
削り取られたのは、消しゴムの頂点からおよそ二ミリの範囲。
断面は、僕の愛用する定規の目盛りよりも鋭く、滑らかだ。
カッターナイフ、あるいはデザインナイフの類だろう。
消しゴムを「文字を消す」ために摩耗させたのではない。
明確な意志を持って、その角を「切除」した刃の痕跡。
周囲を見渡せば、クラスメイトたちはこの上なく無防備で、無秩序な時間を貪っている。
隣の席の男子は、使い古された消しゴムのカバーをボロボロに引きちぎり、本体には鉛筆で無意味な穴を開けている。
後ろの女子二人組は、授業中だというのにルーズリーフで手紙を回し、その折られた紙の角は無残に潰れている。
彼らにとって、文房具はただの「道具」であり、その形状の維持に心を砕くなどという概念は存在しないのだろう。
僕からすれば、彼らの机の上はエントロピーが増大しきったゴミ溜めも同然だ。
そんな彼らが、わざわざ僕の消しゴムの「一角」だけに執着し、精密に加工する理由が見当たらない。
脳内のホワイトボードに、可能性をマッピングしていく。
仮説一:僕に対する嫌がらせ。
僕の潔癖な性格を熟知した者が、僕の精神的平穏を乱すために仕掛けた心理攻撃。
……いや、否定的だ。僕を不快にさせたいのなら、筆箱ごと隠すか、中身をぶちまける方が圧倒的に効率が良い。
わざわざ精密に削ぐという行為には、執念に近い「静かな狂気」がある。
仮説二:所有権の主張、あるいは印。
却下だ。
僕と同じ「MONO」のPE-01Aを使用している者はクラスに四名。
だが、彼らは消しゴムを消耗品としか見ていない。
角の有無で個体を識別しようとする変質者は、この空間には僕以外にいないはずだ。
窓の外では、五月の風に揺れるポプラが不規則なリズムでざわめいている。
そのフラクタルな動きが、僕の思考をさらにノイズで汚していく。
チャイムが鳴り、数学の時間が終了した。
講師が去ると同時に、教室内には「休み時間」という名の無秩序な騒音が爆発した。
椅子を引きずる音、意味のない笑い声、パンの袋を裂く音。
それらの雑音に耐えかね、僕はノートを閉じた。
当然、表紙と机の端は一ミリの狂いもなく平行だ。
僕は削られた消しゴムを指先でつまみ上げる。
……やはり、戻せない。
これをペンケースの定位置に戻せば、その欠損はケースの青いロゴと絶望的な不協和音を奏で、僕の視神経を焼き切るだろう。
僕はそれをケースに戻さず、制服のポケットに直接放り込んだ。
指先に触れる、冷たくて鋭い断面。
この「計算の合わない一角」の正体を突き止めない限り、僕は今日という一日を、僕の人生の正しいログとして記録することができない。
僕は席を立ち、窓際で暢気に伸びをしている紬の方へと、静かに歩み出した。




