第9節:カーテンコール
旧講堂に、ようやく秋の夕暮れの「本当の暗闇」が満ち始めた。
岸田先輩は脚立から降り、床に散らばった和紙のチケットを一枚ずつ、今度はピンセットではなく自分の手で丁寧に拾い集めた。
その動作には、執着ではなく、手向けのような静かな決意が宿っていた。
「……律くん。ありがとう。君の言う通り、私の時計だけが壊れていたみたい。このチケット、本当は香織に渡したかった。でも、今の彼女にはもう、一年前の席なんて必要ないんだね」
「物理的に存在しない席に座ることは不可能です。彼女が今必要としているのは、ダンスステージの最前列で、自分の『今』を肯定してくれる観客のはずだ」
岸田先輩は小さく頷き、最後に残った一枚のチケット――僕の机に置かれていた、あの完璧な招待状を僕に差し出した。
「これは、君が持っていて。……私の『間違い』を見つけてくれた、お礼。それから、」
彼女は鏡を指差した。
「その鏡、文化祭が終わったら片付けるわ。来年は、深町さんたちの新しい展示に使えるようにね」
岸田先輩は、紬に優しく会釈をして、旧講堂の重い扉を開けて出て行った。
その足取りは、先ほどまでの重力に逆らうような不自然さはなく、等身大の受験生のそれに戻っていた。
静まり返った講堂に残されたのは、僕と紬、そして巨大な鏡だけだった。
「……終わったね、律くん。なんだか、劇を一本観た後の気分だよ」
紬が大きく伸びをして、僕の顔を覗き込んできた。
「でも、律くんが『無価値な損失』なんて言うから、ヒヤヒヤしちゃった。相変わらず正論パンチが強すぎるよ」
「僕は事実を述べたまでだ。……感情というノイズに構っている時間は、僕のスケジュールには存在しない」
僕はそう答えながらも、手の中にあるチケットを見つめた。
活版印刷の重厚な質感。鏡文字で押された青いスタンプ。
それは、一人の人間が過去に囚われ、狂おしいほどの情熱を注ぎ込んだ「ノイズの結晶」だ。
僕はそれを、自分のペンケースの奥、あの欠けた消しゴムの隣にそっと収めた。
整理整頓された僕の持ち物の中に、また一つ、非合理な物語が入り込んでしまった。
だが、不思議とそれを「不快な汚れ」だとは思わなかった。
「律くん、ほら! 外、見て!」
紬が指差す窓の外。
新校舎の窓からは、文化祭の準備を続ける生徒たちが灯した明かりが、星座のように輝いていた。
一年前の雨の記憶を塗り替えるような、澄み渡った秋の夜空。
「……瀬戸口。一つだけ、計算外のことがあった」
「えっ、何?」
「君が言った、メロンパンの焼き加減の法則だ。……あれは、論理的な根拠が全くなかった」
「あはは! 今さらそこ!? でも、美味しかったでしょ?」
僕は答えず、講堂の鍵をかけた。
不揃いなリズムで隣を歩く紬の足音。
そのノイズが、今は僕の思考を乱すことなく、心地よいBGMのように夜の廊下に溶けていった。




