第8節:孤独の脚本
岸田先輩は、脚立の段に腰を下ろし、力なく両手を膝に乗せた。
鏡に映る彼女の背中は、現実の彼女よりもずっと小さく、遠くに見える。
「……変数漏れ? 私の計算のどこに、まだ間違いがあるっていうの。私は完璧に準備したわ。チケットも、衣装も、この鏡の中の舞台も。律くん、君だって認めたじゃない。これは『本物』だって」
「ええ、物理的な再現度は完璧です。しかし、」
僕は一歩、舞台の奥へと踏み出した。
「あなたが招待したかった本当の相手……佐伯香織さんは、この鏡の中にはいない。それが最大のエラーです」
岸田の肩が、びくりと跳ねた。
「あなたは一年前の事故を、自分一人の罪だと思い込んでいる。マネージャーとして舞台袖で彼女の背中を押し、結果として彼女を負傷させた。だから、その時間を『なかったこと』にして、彼女をもう一度この清浄な舞台に呼び戻そうとした。……ですが、岸田先輩。あなたが磨き上げたその鏡に、彼女は一度でも映りましたか?」
岸田は答えなかった。
代わりに、押し殺したような嗚咽が漏れた。
「九条先輩が、二度と演劇を思い出したくないと言ったのは、あなたを責めているからではありません。彼もまた、あなたと同じように『救えなかったあの日』を自分一人の箱に閉じ込めているからだ。……あなたが一人で舞台を磨き、彼が一人で活字を握り締めている間、当の佐伯さんはどうしていると思いますか?」
僕は紬に視線を送った。
紬は少し躊躇った後、カバンから一枚のプリントを取り出した。
それは、今年の文化祭の「有志発表」のリストだった。
「……岸田先輩。佐伯さんね、リハビリを終えて、今年はダンス同好会のステージに出るんだって。ほら、ここに名前があるよ。一番最後、大トリのセンター」
岸田が顔を上げた。
その瞳に、初めて「今」という時間の光が差し込む。
「彼女は、あなたが守ろうとしている『鏡の中の静止した自分』を、もう捨てている。彼女は足を挫いたあの日を、単なる『過去の不運』として処理し、新しいステップを踏み出そうとしているんです。……それなのに、記録者であるあなたが、いつまでも古い上書き禁止のデータを守っていて、どうするんですか」
僕は自分のポケットから、あの欠けた消しゴムを取り出し、岸田の目の前に掲げた。
「僕の消しゴムは、もう元には戻りません。でも、角がないなりに文字を消すという機能は果たせる。……あの日、舞台が中止になったという事実は、一ミリも動かせない確定事項です。それを否定するために費やしたあなたの時間は、論理的に見て、最も無価値な損失だ」
厳しい言葉だったかもしれない。
だが、これが僕なりの、彼女に対する「整理」だった。
岸田は鏡を見上げ、それから自分の汚れを拭うように、顔を両手で覆った。
「……そう、だね。香織は、前を向いてるんだね。私だけが、あの日から一歩も動けなくて、彼女をこの暗い講堂に閉じ込めておきたかっただけなんだ……」
パリン、と。
何かが割れる音がしたわけではない。
だが、鏡の中に固定されていた「一年前の空気」が、出口を見つけて一気に流れ出していくような感覚があった。




