第7節:舞台裏の観客
旧講堂の重い扉は、湿った空気を含んで低く呻いた。
立ち入り禁止の黄色いテープを潜り抜けた先には、一年前から堆積したままの時間が、埃の層となって床を覆っている。
窓硝子は汚れ、差し込む夕日は濁った琥珀色に変色していた。
「……律くん、ここ、本当に空気が止まってるみたい」
紬の声も、ここでは反響せずに闇に吸い込まれていく。
僕は迷わず、舞台袖の狭い階段を上った。
舞台上には、あの日落下した照明機材の残骸こそ片付けられていたが、床には鋭い傷跡が、まるで消えない爪痕のように刻まれている。
そして、その中央に、彼女はいた。
文化祭の腕章を巻いた女子生徒――岸田が、脚立の上に立ち、舞台の天井から吊り下げられた大きな鏡を拭いていた。
「……岸田先輩。掃除はもう十分ですよ。いくら磨いても、そこに映る世界が正しさを取り戻すことはない」
岸田の手が止まった。
彼女はゆっくりと脚立を降り、僕たちの方を振り返った。
その手には、チケットの裏に押されていたのと同じ、青い岩絵具で汚れた布が握られていた。
「律くん……。やっぱり、君が最初に来たんだね。九条くんじゃなくて」
「九条先輩には、このチケットは届かない。彼は『舞台の中の人間』だからだ。対して、僕やあなたは『舞台の外の人間』……すなわち観客であり、記録者だ。九条先輩はあの日を絶望として葬りましたが、あなたはあの日を『保存』しようとした」
僕はステージの端、一箇所だけ埃が不自然に拭い去られた場所を指差した。
「そこは、あの日佐伯香織さんが倒れた場所だ。あなたはそこに立ち、鏡を設置することで、あの日、緞帳が上がるはずだった『幻の14時00分』を、鏡の中に固定しようとした。チケットを和紙に刷り、湿気から守り、完璧な状態で僕に届けたのは、この異常な空間の『検校』を僕に依頼するためですね」
「……検校?」
紬が首を傾げる。
「僕の潔癖さを利用して、この止まった時間に『正しい』というお墨付きを与えさせたかったんだ。僕が『完璧なチケットだ』と認めれば、彼女の中であの事故は無かったことになり、劇は鏡の中で永遠に上演され続ける……。そんな非論理的な永久機関を、あなたは望んだ」
岸田は力なく笑い、手に持っていたチケットの束を床に落とした。
バサバサと、重厚な和紙が重力に従って散らばる。
「……律くんの言う通りだよ。私は、あの日、舞台袖で香織の背中を押した瞬間に戻りたいだけ。照明が落ちる前の、あの完璧な静寂の中にいたいだけなの。……でも、私の時計はあの日からずっと、一分も進まない」
彼女の瞳には、狂気よりも深い孤独が宿っていた。
僕はポケットから、自分自身の「欠けた消しゴム」を握り締めた。
「岸田先輩。……あなたの計算には、一つだけ致命的な変数漏れがある」




