第3節:合理的な再演
僕は旧校舎の三階、進路指導室の隣にある空き教室の前で足を止めた。
九条 蓮。
三年生。
受験勉強の合間に、彼は今も一人でここに通っているという情報を紬が掴んできた。
「律くん、本当に行くの? 先輩、去年の事故以来、ちょっと怖いって噂だよ」
「感情に左右される噂はノイズだ。僕はただ、提示されたデータの整合性を確認しに行くだけだよ」
僕はノックを三回、正確に一秒間隔で鳴らし、返事を待たずに扉を開けた。
教室内には、西日に照らされた埃がゆっくりと舞っていた。
一番後ろの席に、一人の男子生徒が座っている。机の上には参考書ではなく、古い活字の束と、真っ赤なインクスタンドが置かれていた。
「……九条先輩ですね。二年生の、律と言います」
九条は顔を上げなかった。
ただ、インクスタンドの蓋をゆっくりと閉める音が、静かな室内に響いた。
「二年生が、受験生に何の用だ。受験相談なら他を当たれ」
「いえ、相談ではありません。招待状の確認です」
僕はピンセットで挟んだままのチケットを、彼の机の上に静かに置いた。
「去年の文化祭で中止になった『鏡の向こう』。これを作成し、僕の机に届けたのはあなたですね。実家が印刷所であれば、去年の活版データを流用し、黄ばんだ古い和紙に刷り直すことは容易だ。動機は……一年越しの再演。プロモーションとしては、これ以上ないほどミステリアスで効果的だ」
九条の肩が、わずかに揺れた。
僕は確信を深め、論理を畳み掛ける。
「一年前、照明の落下という不慮の事故で幕が上がらなかった。演出家であるあなたにとって、それは『未完の数式』と同じだ。だから今年、あなたは密かに有志を集め、立ち入り禁止の旧講堂でゲリラ的な再演を目論んでいる。僕を招待したのは、僕が校内で『最も秩序を重んじる人間』だからだ。僕がこの謎を解き、観客として現れることを、あなたは計算に入れていた」
九条がゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、僕が予想していた「野心」や「情熱」とは正反対の、凍てつくような無機質な色をしていた。
「……合理的なプロモーション、か」
九条の声は、ひどく掠れていた。
「君は、演劇を何だと思っているんだ。あの事故で、僕たちがどれだけのものを失ったか。……香織が、どんな思いで舞台を降りたか。君には一ミリも理解できていない」
九条はチケットを掴むと、それを僕の方へ投げ返した。
「二度と、その紙切れを僕に見せるな。再演なんて、ありえない。あの日、僕たちの時間は死んだんだ。……それをわざわざ掘り起こして楽しんでいるのは、君の方じゃないか?」
「え……?」
チケットが、僕の足元に力なく落ちた。
僕が完璧だと思っていた「再演プロモーション」という仮説が、九条の放つ圧倒的な「拒絶」という感情によって、音も立てずに瓦解していく。
「帰れ。……二度とここに来るな」
九条は再び背を向け、活字の束を握り締めた。
僕は、自分の計算式がどこで間違ったのか、そのエラーコードを特定できぬまま、立ち尽くすしかなかった。




