第八話
今日だけで、私はどれほど涙もろくなってしまったのだろうか。
「やあ、シーリャ」
そう思いながら、出てきた私を待っていたのは兄様だった。
「先ほどぶりだね」
「……待っていたんですか?」
「ううん、偶然」
そう言いながら、兄様は私に連れ添って歩き始める。
「まあでも折角だから部屋まで送るよ」
「うそつき」
私の言葉をまるで聞こえていないような振りをしながら、兄様は歩き出す。
こんな近くにいて、聞こえない訳がないのに。
「どんな話をしたの?」
その問いに私は少し沈黙する。
……さすがに泣いた話をするのは恥ずかしいと思って。
代わりに、私は感じたことを口にした。
「……私はお父様に見守られていたのですね」
「そうだね。あの人も不器用なところがあるから、分かりにくいけどね」
私の言葉に、兄様は楽しげに笑う。
「それで、私より先に父に婚約破棄を話したと告げたかい?」
「はい。楽しげに笑っていました」
「……そう」
一瞬、兄様の額に青筋が浮かんだ気がして、私は目を瞬かせる。
けれど、次の瞬間には兄様の顔にはあきれたような笑みが浮かんでいた。
「本当にあの人も相変わらずだな」
その言葉に私は不思議に思う。
私が見た初めての父の姿も、兄様から見ればいつもの姿なのかと。
「ところで、これから先シーリャはどうするの?」
「どうする、ですか」
そういって、私は気づく。
……今後について、自分の中に一切どうするかの展望がないことに。
「そうですね、私にはもう学園に通う意味はないですもんね」
学園とは本来若い貴族の社交の場であり、高位の貴族達とのつながりを作るには必須の場所だ。
しかし、強大な権力を持つフランシスコ家には、本来その社交も必要ではない。
にもかかわらず、私が学園に通っていた理由はアズドリア伯爵家の女主人になった時のため。
つまり、婚約破棄された今、私に学園に戻る理由は残っていないのだ。
「やっぱり先のことは考えてなかったんだ」
「……はい」
「そっか」
そう告げた兄様はなぜか、少し緊張した様子で口を開く。
「──シーリャ、君は雪狼騎士団長の専任の秘書になる気はないかい?」
次の瞬間、兄様が提案したのは想像もしない言葉だった。
「騎士団長の秘書、ですか?」
聞き返しながら、私は驚きを隠せない。
騎士団はほとんど事務仕事を処理することはない。
だが、雪狼騎士という辺境最強の騎士団の団長である兄様は別だ。
そんな騎士団長の事務仕事を代理で行う人間こそが、騎士団長専任の秘書と言われる。
そして、そんな秘書にはきちんとした能力を持った人間が必要とされる。
「……そんな、ただの学生でしかない私をそんな立場にしていいのですか?」
「当たり前だろう? 団長の私の判断だ」
「身内の贔屓目と言われますよ」
「言わせておけばいい。シーリャなら、すぐに黙らせられるだろう?」
そう言って、ウィンクをする兄様に、私は思わず笑みをこぼす。
本当にこの兄様は妹使いが荒いと。
「そもそも私は、本来ならもっと早くに君を秘書にしたかったんだ。だが、さすがに元婚約者殿に悪いと思ってね」
「え?」
想像もしていない言葉に私は思わず戸惑いの声を上げ、すぐに思い出した。
過去、騎士団長専任秘書は、騎士団長の愛人を戦場に連れて行くための言い訳だったと聞いたことがあることを。
現在でも、騎士団長専任秘書に婚約者を任命する騎士もいる。
人気の騎士団長の秘書は女性にとって憧れの的で、兄様の秘書の立場は水面下で女性が争うほど人気なのだ。
「……兄様、もしかして、妹の私を秘書にすることで女性達の争いをやめさせようとしています?」
「いやまさか」
私の問いに、なぜか兄様は心から楽しげに笑う。
「僕はただ、妹がどれだけ大事か周りに教えたいだけさ」
そう言いながら、兄様は私の髪をかき分け、ひんやりとした兄様の指が、額に触れる。
「もう誰にも配慮する必要なんてないのだから」
次の瞬間、兄様が私の額にキスをした。
柔らかい感触に私は思い出す。
昔の兄様はよく、こうしてキスをしてくれていたと。
そして、私はこうして兄様にキスをされるのが好きだった。
「お休み、シーリャ」
「……お休みなさい、お兄様」
気づけば部屋についていた私を、兄様は微笑んで見送る。
その時にはもう、私の中に帰ってきた時に抱いていた衝撃は残っていなかった。




