第五話
「お早い帰りですね、お嬢……。お嬢様、一体!」
「何でもないわ。お父様を呼んで頂戴。火急の用で伯爵家からの使者が来たと」
「か、かしこまりました」
「私は少し自室で休ませてもらうわ。すぐにお父様に呼ばれると思うから服は着替えないわ」
セルダムから送ってもらった後、そう告げるだけ告げて私は自室に戻る。
これからセルダムが経緯を説明する一時間ほどは私も休息をとれるだろう。
……自分の感情を隠さなくていい時間を。
「何が、真実の愛よ」
涙が一筋、私の頬を流れる。
ようやく泣ける。
そう思ったのに、私が流せた涙はそれだけだった。
──ラドリーを支えると言うならば、これから泣くことは許されない。
かつて、私がラドリーを婚約者に迎えた時、父が言った言葉がよみがえる。
その言葉を守ってきたせいか、もう私は泣くことができなかった。
……全てを犠牲にしてきた今が無駄だったと理解した、今でもなお。
今になれば分かる。
泣くなと告げた父の言葉は実際正しかったのだろうと。
ラドリーは当主として向いていなかった。
そんなラドリーを伯爵家の次期当主にするためには、あまりにも多くの労力と時間が必要だった。
今まで、私がラドリーの為にしてきたことが蘇る。
覚えるのが苦手なラドリーの為に、要点をまとめた資料を作った日々。
ラドリーの代わりの根回しに、すぐさぼるラドリーに睨みを利かせる日。
ラドリーに勉強する事を強いながら、その数倍私は勉強した。
学園でも私のきつい人というイメージはそのせいだ。
でも、その日も決して苦悩ばかりの日ではなかった。
──いつもごめんね、僕のせいで君が悪者になっている。
当のラドリーがその事を知っていてくれたから。
だから、あの日。
ラドリーが伯爵家次期当主になった時、私は誰よりもうれしかったし誇らしかった。
ラドリーを見下してきた人間にようやく胸を張って言える。
これが私、シーリャ・フランシスコの婚約者だと。
そして、ラドリーも私と同じ気持ちだと私は思っていた。
──ありがとう、シーリャ。これでようやく君と家族になれる。
「うそつき」
そうつぶやき、私は自分の涙を拭う。
お父様に呼ばれる一時間前までに、準備を整えておかないと。
その時に泣きはらした目でいるなど、フランシスコ家の恥だ。
……そもそも婚約者に婚約破棄された娘として、フランシスコ家の名誉を落としているのに、それ以上恥をさらす訳にはいかない。
「シーリャ、いるか?」
聞き覚えのある声、私の兄の声が響いてきたのはそのときだった。
「入っていいか?」
「……どうぞ」
その瞬間、扉の向こうから入ってきたのは銀色の長髪を後ろでくくった青年だった。
ハイド・フランシスコ。
私の兄にして、フランシスコ侯爵家が盤石と言われる要素の一つである次期当主だ。
古代に失われた魔法を扱うことができ、まだ二十にもならない年齢ながら、騎士団団長として辺境の魔獣の討伐経験もある。
そんな誇らしい兄の顔はいつものように、軽い笑みを浮かべていた。
「とうとうラドリーと別れた……シーリャ?」
しかし、その途中その笑みが消えた。
謎にラドリーを敵視する、ハイド兄様のいつもの質問も止まる。
代わりにその顔に浮かぶのは、真剣そのものな表情。
「……帰ってきた時からおかしいと思ったが、何があった?」
ハイド兄様の言葉に、私は迷う。
ラドリーの婚約破棄について、兄様に話していいのかと。
普段ラドリーを兄様が好きではない事は知っている。
しかし、今私は軽口だと理解していても、兄様との会話を受け流す自信がなくて。
「少しは信用してくれ」
そんな私に、兄様は困ったように笑った。
「君に何かあった時にちゃかすほど、無責任な兄はしていないつもりだ。真剣に聞く」
そう言いながら、兄様が私の頭に手を伸ばす。
どこか恐る恐る伸ばされたその兄様の手が、私の頭を撫でる。
……昔はよく、こうして頭を撫でてくれていたっけ?
婚約者ができてから、兄様がこうして頭をなでてくれることはなくなっていた。
けれど、私はこうして頭を撫でられるのが好きだった。
「私は、頑張っていたのに」
「うん」
気づけば、もう流れないと思っていた涙が周囲の景色を歪めていた。




