第三十六話
「しー、シーリャ様!? お、お久しぶりでございます!」
目の前、目が痛くなる程に豪華な服に身を包んだ男が頭を地面にこすりつけている。
そしてその光景を、背後のサブリナが唖然とした表情で見ていた。
まるで何が起きたのか、そう言いたげな表情で。
バロランド伯爵家当主を呼び出した話し合いの始まり、それは一瞬で混沌とした状況になっていた。
誰も彼もが何があったと言いたげな空気の中、実のところ一番混乱しているのは私だった。
ふてぶてしく部屋に入ってきた男が、私の顔を見た瞬間にその場で硬直。
そして次の瞬間には、地面に頭をこすりつけ始めたのだ。
一体誰が目の前でこんなことが起きると想像できる?
しかし、その内心の思いは一切出さずに私は口を開く。
「お久しぶりですわ、バロランド伯爵家当主」
あえて、私は彼の名前を口にしなかった。
それは通常であれば、許されない失礼な行為。
ただ、バロランド伯爵家の冷や汗のにじむ顔を見る限り、彼はそのことにさえ気づく余裕もないかもしれないが。
「実は私、この度兄ハイドの秘書として働くことになりましたの」
「は、はは。それはまことにめでたいことですな。ハイド様もさぞ心強く思っているでしょう。しかし、シルドアという名前はどうしたのですか?」
「兄が言っていたんです。私が立派に秘書としてやっていくにあたり、忖度なく、様々な知見を得られる場所に行くのがよいのではないかと。故に私は平民として事務方で勉強させて頂くことにしました」
「……さすが、ハイド様。私は考えもしなかった次期当主として、誇られるべき知見と考えます」
そう言葉を絞り出すバロランド伯爵家当主。
しかし、その青い顔が何より雄弁にその内心を物語っていた。
その内心に気づかないふりをして、私は微笑んで見せる。
「私、まずはお礼を言わないとと思っていましたの。バロランド伯爵家ご令嬢サブリナ嬢にたくさん教育していただきましたので。それも本当にたくさん」
そう言いながら、私はサブリナの方をみる。
その顔には、もはや私の正体に対する驚愕はなかった。
代わりに浮かぶのは、一切血の気のない表情。
「改めてお礼を言わせてください。サブリナ嬢。この数日間、本当にお世話になりました」
私の言葉に、サブリナが何かを口にしようとする。
しかし、その口から言葉が出ることはなかった。
ただ、口が開閉するだけのサブリナに、私はただ微笑む。
「本当に申し訳ありませんでした、シーリャ様!」
バロランド伯爵家当主がその場に土下座したのはそのときだった。
頭を再度地面にこすりつけ、バロランド伯爵家当主は告げる。
「娘から全ては聞いております! 本日はそのことで、謝罪をするべく参りました!」
嘘をつけ、口封じをするためだろうに。
そう、私は内心つぶやく。
サブリナに対するバロランド伯爵家当主溺愛の話は有名だ。
一体どれだけの人間が、サブリナを溺愛するバロランド伯爵家当主によって罷免されてきたか、数え切れない。
「──全ての責任はサブリナにあります! どうぞ、この娘をお裁きください!」
故に、私は次のバロランド伯爵家当主の言葉が信じられなかった。




