第三十話 (サブリナ視点)
「お言葉ですが、わきまえるべきは、バーリナ子爵令嬢貴女では?」
淡々としたシルドアの声。
しかし、やけにこの場に響いた。
この場にいる全員が、シルドアを信じられないといった目で見ていた。
当たり前だ。
バーリナはこの事務方におけるナンバー2。
そんな人間に一番身分が低いシルドアが口を挟む。
それは明らかに異常事態で、けれどシルドアはそんなことを気にすることはなかった。
「バーリナ様は、サブリア様が今回は見逃すと言ったのを聞いていなかったのですか?」
「っ! それでも、身分に不相応な振る舞いをしたのは貴女じゃない」
「ああ。バーリナ様は何も理解していないのですね」
声を荒げた訳じゃない。
けれど、その時のシルドアの言葉はこの場にいる全員の空気を引き締める効果があった。
「確かに私は身分に合わない働きをしました。それは咎められるべきかもしれません」
「ほ、ほら!」
「ですが、そんな私を今回サブリア様はお許しになられた。それが何故か分かりますか?」
「それは慈悲を……」
「違います」
そう告げたシルドアと目が合う。
止めなければ、そう思いながら、しかし私には何も口を挟めなかった。
……その全てが墓穴を掘ることにしかならないと理解していたから。
シルドアの冷めた目は、その私の内心を全て見通していた。
「──サブリナ様が私を許されたのは、この計算式が有効であったからです」
「そんなこと……! この書類に使っているのは古くから使われている歴史のある計算式よ」
「ええ。その通りです。ただ、この計算式は無駄が多い。故に今、高位貴族の文官の間で使われているのがこちらの計算式です」
「……でたらめだわ」
「そう思うなら結構ですわ。疑いがあるなら、ハイド様に聞いて下さっても大丈夫ですわ」
そこで、言葉を止めたシルドアは私に目を向けた。
まるで、ここで逃げるのは許さないと言いたげに。
「少なくとも、サブリナ様はこの計算式の価値に気づいておられましたよ。そうですよね?」
……言い訳をするべきか、否定するべきか。
そんな考えが私の頭に浮かび、消える。
この計算式が正しく、ハイド様を出された以上、私に勝ち目はないことは分かり切っていたから。
「……ええ、そうよ」
その瞬間、バーリナの愕然とした表情を私は見られなかった。
そして、バーリナのさらした致命的な隙にシルドアが手心を加える訳もなかった。
「これで理解できましたか、バーリナ様。──サブリナ様の顔を汚したのは貴女です」
「私、は」
「そもそも」
その瞬間、シルドアはバーリナの喉元に手を当てる。
そして、呆れたように笑った。
「自分の体調管理もできない人間に、とやかく言われたくはないですわ」
「っ!」
瞬間、ただでさえ赤かったバーリナの顔がさらに赤くなる。
同時に私は気づく。
……バーリナの顔は、確かに明らかに体調が悪い時の状態だったと。
ここ最近、バーリナはシルドアに張り合っていた。
それで体調を崩したのだろう。
シルドアに意識を奪われすぎ、腹心の部下の体調にさえ気づかなかったことに後悔が生まれる。
そのせいで今、バーリナの立場はシルドアと逆転していた。
その事実に、バーリナの目には涙が浮かんでいた。
「……本当に無理をして、何をされているのですか」
今までの張り詰めた空気が嘘のように、優しい声をシルドアが出したのはそのときだった。
変わらず呆れたような、けれど優しさを滲ませた笑みを浮かべた彼女は続ける。
「バーリナ様でしたから、この計算式が正しいことくらい理解できたでしょうに」
「……シルドア?」
「無理をなさるから、目測を誤るのですよ。今日はゆっくり休んで下さい」
そのシルドアの言葉の意味を、この場にいる全員が理解できなかった。
事務方は常に激務だ。
いくらシルドアが仕事ができるといえ、この事務方ナンバー2のバーリナが抜ければ回らなくなる。
「サブリナ様、お願いがございます」
狩人のような目をしたシルドアが私の方を向いたのは、そのときだった。
「──バーリナ様の分の仕事を私がします。バーリナ様の帰宅の許可を」




